木村幹の韓国近現代史「写真コラム」


牙山・天安
- 近代史と現代史の境目で -
(撮影・2006年8月)


このページの解説

 忠清南道の牙山から天安にかけての地域は、韓国現代史における重要人物を数多く、排出してきた地域です。
 このページでは、この地域における人々の足跡を写真で紹介します。

 牙山市屯浦面は、朝鮮王朝末期に栄えた波平尹氏一族の本拠地であり、今日でも数多くの伝統的な建築物が残されている。

 波平尹氏一族は、言うまでもなく、大韓民国第二代大統領・尹潽善を生み出した一族である。写真は、その生家。建物は今日、住む人のないまま、放置されている。

 尤も、この家そのものはといえば、1907年、時あたかも勃発した第二次義兵運動を中心とする混乱の中、農民達によって焼き討ちされた生家を、同年頃、再建したものである。従って、厳密に言えば、尹潽善はこの家で生まれた、という訳ではない。


 この建物が興味深いのは、大韓帝国末期以降の在地有力者達の生活の変化を垣間見せてくれることかも知れない。写真は同じ生家に残された、韓国式・洋式折衷の建物の内部。1920年代頃建築と推定される。


 この地域において興味深いのは、同じ箇所に一族有力者の、ほぼ同じ規模の邸宅が数多く、存在していることである。それは例えば、高敞における金性洙等、蔚山金氏一族の居宅が、一つの大きな邸宅を形成していたのとは好対照を為している。朝鮮半島における伝統的な財産相続のあり方は、均分相続が基本であったから、この波平尹氏一族の居宅の作り方は、より伝統的な形式に拠ったものということができる。
 生家から自動車にて10分ほど下ったところには、同じ波平尹氏一族の墓所がまとまって存在している。写真は、尹潽善大統領の墓所。
 写真は、尹潽善の父、尹致昭の墓所。尹致昭は、大韓帝国末期から日本統治期において、尹致昊と並ぶ、波平尹氏一族の中心的人物として、活躍した。その業績の一部には、今日、「親日的」との厳しい非難も向けられている。
 朝鮮王朝末期以降の波平尹氏の隆盛の礎を作ったのは、尹雄烈、尹英烈の兄弟であった。その内、尹致昭・尹潽善は尹英烈にはじまる一門に名を連ねている。写真は、尹英烈の墓碑。
 上の尹英烈の墓碑をはじめ、甞ての古い墓碑は、墓所下の駐車場近くに保存されている。1980年代の尹潽善死去に伴い、この墓所が再整備された際にこのように整理されたものと考えられる。


 一転して、牙山から自動車で約40分、天安市から東に少し離れたところにある、趙炳玉の生家。趙炳玉は1950年代の野党民主党旧派の領袖であり、また、米軍政府警務部長、及び朝鮮戦争当時の内務部長官として、韓国「国立警察」の創立・再建に大きく関与した人物である。

 趙炳玉の生家のすぐ近くには、三一運動における悲劇の主人公、柳寛順の生家もある。訪れる人のまばらな趙炳玉の生家に比べ、この生家を訪れる人は依然として多い。
 柳寛順の生家のすぐ隣には、彼女を記念した教会と資料室が建てられいる。また、この近所には彼女を祭る廟も存在し、韓国民族主義における柳寛順の存在の大きさを知ることができる。

近現代朝鮮/韓国史の目撃者たち:目次

韓国は如何に現代史を「祀った」か
- その1・顕忠院(国立墓地)-

韓国は如何に現代史を「祀った」か?
- その2・北岳山「先烈墓域」-

朝鮮総督府・米軍政庁・(大韓民国)国会議事堂・中央庁・国立中央博物館
- 数々の顔を持った今は無き建築物-

1992年第14代大統領選挙写真集
- 大演説集会のある風景 -

山の上に「街」があった頃
- 1990年前後の韓国を振り返る -

木浦の旧日本家屋
- 「日本人の住む街」でもあった港町 -


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