講義用メモ(2013年6月14日更新)

注意・このメモは、木村が講義の必要上作成したものです。昨年の同じ講義のノートを基礎に作成したメモ段階のものですので、表現の不十分な部分、未整理な部分等、多々含まれておりますので、具体的な講義の内容等については、直接、Kan_Kimura@yahoo.com までお問い合わせください。当然のことながら、本講義ノートの内容は、講義の進展に合わせて少しづづ、改定していきますので、受講に際して参照される方は、定期的にご覧になられることをお勧めします。また、無断での引用等は厳にお断りさせていただきます。

政治学特講A(日本植民地支配とナショナリズム)のメインページへ


関西学院大学法学部「東アジアの政治A(日本植民地支配とナショナリズム)」


第1講

はじめに

1.講義担当者の紹介 - 氏名・専攻(比較政治学・朝鮮半島地域研究)・経歴等々
→ 担当教員のバックグラウンドから何を学ぶかを考え、積極的に吸収して欲しい

2.講義をはじめるに当たって
1)単位 - 学期末の試験(論述、持ち込みすべて可、小テスト等は実施予定なし)
2)出席 - 強制せず
3)テキスト - なし、参考文献は必要であれば講義中に適宜指摘

3.講義の構成
 0:00~0:10 東アジア事情紹介
 0:10~0:15 前回の講義内容の確認
 0:15~     講義本体

4.スケジュール

 5月24日は休講可能性あり、追って通知予定

5.本講義の概要
1)目的 - 東アジアの近代政治史、特にそこにおける植民地支配巡る問題の分析を通じて、政治や歴史について考える
2)意義
A.依然として議論される「歴史認識問題」
→ 「尖閣、竹島、歴史教科書、靖国神社、従軍慰安婦・・・ - その中で多様なプロジェクトも存在 
例・日韓歴史共同研究、日中歴史共同研究
ここで重要なことは、
 (い)同じ「日本統治」を通じて各国・各人別に多様な見方が存在すること → 歴史認識問題の本質は歴史的事実そのものよりも、それに対する理解や意味づけが大きく異なっていること
 例・強制連行 - 何が「強制」か
   「責任」 - 法的責任か、道義的責任か、道義の基準は何か
 (ろ)この問題が「アジア」にとっての問題である以上に「日本の問題」であること
 例・「新しい教科書を作る会」の問いかけ - 日本人への「物語」の提供
   → 何故に、物語を創らねばならないか
   - そして、何故にそこにおいて「植民地支配」がどういう意味を有しているか
   → ここで問題にされているのは、「過去の事実」ではなく、「日本がどうあるべきか」
B.「東アジア」諸国の共通の経験としての、「日本統治」
→ それが「どのようなもの」であり、「どのような影響を与え」、「どのように認識されたか」 → 第二次世界大戦後の経済発展、民族意識、政治体制、への影響
 例・韓国と台湾の日本統治観の差違 - 事実の違いよりも、その理解の差
C.東アジアの事例を通じて政治学や政治発展について重要な概念について学習する
→ 我々の現在の社会はどのようにして形成されてきたのか - ナショナリズム、国家形成、民主化、等
D.「政治」における「意識」や「文化」の問題
→ 単に「A国の文化はXXだ」と考えるのではなく、「なぜそうなったのか」を考えることにより、その「変化」をも、ある程度見通すことができる
E.そもそも「政治」とは何か、「支配」とは何か

補論1

 「歴史」とは何か - 「過去」そのものは単なる無限の事実の塊 → その中から人々が「重要だ」と考える事実を選び出して構成するのが「歴史」
言い換えるなら、
 1)「歴史」は単なる「過去」の反映ではない
 2)「歴史」があって「歴史認識」があるのではなく、「歴史認識」があってはじめて「歴史」がある
 3)従って単に「歴史的事実」について議論しても、「歴史認識問題」の解決は得られない

補論2

 1)意図したこと
 2)行おうとしたこと
 3)実際に行ったこと/行えたこと
 4)その影響
 5)それに対する認識
→ それぞれは全く別


第2講

第一章 植民地とは何か(世界の他の地域との比較を念頭において)

この講義のおおまかな流れ

1.そもそも植民地とは
2.「西洋の衝撃」によりなぜに東アジア各国の運命はわかれたか
3.日本の植民地支配や東アジアにおける政治的覇権はどのようなものだったのか
4.日本の植民地支配や政治的覇権の下にあったことは、各国にどのような影響を与えたか
→ 序にこれを通じて、「支配とは何か」「民族とは何か」も考えてもらう

ここでの理解の重要なポイント

a.最初からいきなり「善悪論」にとらわれない(理解した上で判断する)
b.客観的に「どのようであったのか」
c.論理的に「なぜそうなったのか」
d.「行ったこと」と「結果」は必ずしも同じではない、ということ、そしてそれにも理由があること
e.「事実」と「信じられていること」は必ずしも同じではないこと、そしてそれにも理由があること
f.何れの場合も、その参考の為にも、他地域の事例を考慮にきちんと入れること
前提
 「前近代の社会」 → 「改革」 → 「植民地支配」 → 「独立」
       (西洋の衝撃) (改革の模索と失敗) (民族運動)

●歴史的に見た植民地 - Colony≒「居住地」/「移住地」
しかし、勿論、「日本植民地」は、このような「植民地」とは異なる
→ 「移住型」植民地、と、「他民族支配型」植民地
前者 - 相対的な人口希薄地域において、先住民族社会を破壊した上で、宗主国或いはそれに準ずる国の人々(他西欧諸国人)や、宗主国の必要に応じた地域の人々(強制 - 黒人奴隷、自主 - 華僑・印僑)が移住し、当該地域における多数派を構築する
例・アメリカ、オーストラリア、アルゼンチン
特徴 - 植民地支配初期においては、相対的に強い抵抗があるが、支配確立後は、移住民が多数を占める関係上、宗主国との文化的摩擦は小さい。社会構造は宗主国のそれに類似したものとなり、宗主国による上からの支配が下まで貫徹しやすい。そこからの独立は、類似文化の所有者間の争いとなり、「国民意識」の成立までの経過が不明確になりやすい。
後者 - 人口周密地域において、先住民族社会を温存しつつ該当地域を支配する。
例・インド(特に藩王国)、インドネシア(ジャワ)、エジプト
特徴 - 程度の差こそあれ、先住民族社会・文化と、宗主国社会・文化の二重状況が生じる為、植民地支配の期間全体を通じて、支配層・被支配層間の軋轢が生じやすい。また、既存社会が存在している為、植民地国家が直接末端までその支配を貫徹することが困難。
勿論、本講義において重要なのは後者
∵ 東アジアにおける「移住型」植民地の不在
- 但し、満州、南樺太、南洋群島、及び、初期朝鮮支配(終戦時100万人の日本人)における移民、また、北海道
さてここにおけるポイントは、
 後者において、宗主国が先住民社会に対してどのような政策を行なうか
ここでの大きな軸としては、
 1)できるだけ先住民社会に介入せず、これをそのまま温存する
 2)先住民社会に介入して、できるだけ先住民を(文化的・経済的・政治的等等)宗主国人と類似した存在とする(現地社会近代化、同化政策)
→ 勿論、後者のほうが、先住民社会との軋轢は大きくなる
注意すべきは、
 それが如何なる善意から出ていようと、如何なる「良い結果」を齎すものであろうと、少なくとも、介入がそれまでの安定した社会を撹乱し、混乱させる要因にはなること(また、その中では必ず、社会的変動の中から取り残され、被害を受ける者が存在)
逆に言えば、
 宗主国が先住民社会に介入せず、それをそのまま放置しておくなら、先住民と宗主国の間の軋轢は相対的に小さくなる


第3講

参考文献

 植民地支配下における経済発展

  溝口敏行・梅村又次編『旧日本植民地経済統計―推計と分析』東洋経済新報社
  山本有造『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会
  金洛年『植民地期朝鮮の国民経済計算―1910‐1945』東京大学出版会

  シュムペーター『帝国主義と社会階級』岩波書店

  池端雪浦他編『岩波講座 東南アジア史〈6〉植民地経済の繁栄と凋落―19世紀半ば~1930年代』 岩波書店

  Angus Maddison, The World Economy: A Millennial Perspective/ Historical Statistics, Organization for Economic
  ブライアン・R.ミッチェル編『マクミラン新編世界歴史統計』 (1)~(3)、東洋書林

第二章 「近代」と植民地

 第1章のまとめ
1)植民地の分類 - 日本植民地と比較すべきものは何か
2)植民地支配を見る上でのポイント - 宗主国社会と現地社会の関係
(特に前者が後者にどのように「干渉」するか)

次のポイントとして、
3) 東アジアにおいて植民地を産み出した原因 - 宗主国と現地社会を分けるもの
そこで、
 重要なことは、19世紀に入り、西洋社会と非西洋社会の間に、単純な「量」(と距離)で補うことのできない、何かしらの「決定的な格差」が開いたこと
Cf.「距離」 - 東アジア (西洋から最も遠い土地 - ここまでもが植民地化されたことの意味)
 19世紀以前 - ヨーロッパに近い地域、或は、膨大な人口を擁する(それを支えるだけの経済力がある)大文明を持たない地域が植民地化される
→ その意味で、東アジアは、植民地にならない二つの条件を兼ね備えていた(巨大な人口、「極東」)
→ 日本近代の「幸運」
しかし、19世紀以降、何らかの理由により、
 西洋列強は、全世界的、且つ、従来のような沿岸地域に限定されない、内陸部に至るまでの植民地支配の拡大が可能となる
その原因は何か? 
→ もちろん、ここで最も重要なのは、西洋・非西洋間の圧倒的な「軍事的」格差
ここで、「軍事」を見る視点
 1)武器体系の変化 Cf.ポール・ケネディ『大国の興亡』(草思社)
  小銃(火縄銃+銃剣) → 重装歩兵(14世紀からのゆっくりした変化)
  カロネード砲 → 軍艦破壊力
 しかし、
  基本的に19世紀前半の軍隊は、18世紀前半のそれと大差ないものであった
 2)組織面の変化
  a.前線 - 人口増加と農業生産の増大による大規模な戦力単位編成の可能化
         農業技術発展による大規模軍隊維持
  b.後方 - 兵站部の整備
→ これを支える、「国家(行政)」システムの整備
    ●準軍事的インフラ - 兵営・病院・練兵場・ドック・兵器工廠・道路
    ●経済的インフラ - 農業・工業・商業全般の発達、安定した金融システム
    Cf.西洋経済発展の前提としての、16世紀型植民地
→ 西洋諸国の交易独占による西洋への富の集中 → (特に)銀の流入 → インフレ等による市場活性化 → 産業革命
→ 市場・原料確保のための植民地「囲い込み」
    ●財政的インフラ - 「合理的」な徴税制度
   (←→前近代の「中間搾取」 例・徴税請負人)
    ●文化的インフラ - 「画一的」な文化供給システム
    → 教育システム(生活習慣、規律、言語、軍事 - 練兵場等等)
    ●政治的インフラ - 継続的に戦闘を行なうための安定且つ比較的大規模な政治システム → 「中規模の」中央集権国家
  Cf.「植民地列強の時代」は、同時に、欧州における小国受難の時代、でもある
  例・ポーランド、ドイツ・イタリア諸侯消滅 - オランダ、スウェーデンの周辺化

備考
 ナポレオン戦争
 カスティリオーネの戦い   46,000人 VS 61,000人
 アウステルリッツの戦い   73,000人 VS 84,500人
 ボロジノの戦い        133,000人 VS 120,000人
 ライプチヒの戦い       195,000人 VS 365,000人

しかし、
 もちろんこれだけでは、この「システム」は機能しない
∵ これは即ち、嘗ては欧州にも存在していた、「前近代」の社会が解体されて行く過程であり、同時に、これまで重要でなかった「中央の国家」がその社会に対する介入を深めて行く過程である
→ 当然のことながら、1)既得権層の反発、2)住民に対する負担増(経済的・肉体的)、の二つの観点から反発が予想される
Cf.政治に対する見方
 国家 - 究極的には、1)何らかの目的を実現するために、2)物理的暴力を最終的な歯止めとして、これを実現するための組織・行為
→ しかし、これを行なう方法は、他にも存在する - 経済とイデオロギー(「金」をもってするか、「思想」をもってするか)
勿論、
 全てを力で押さえ込むことは不可能 ex.反体制デモ


第4講

前回の質問より(その2)

 イギリスの支配とフランスの支配

 ホブズボーム『帝国の時代 1』みすず書房

 木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義』有志舎

 本田毅彦『インド植民地官僚』講談社

 もっと勉強したい人は、

 Rudolf Von Alberstein, Decolnization, Doubleday
 Henri Grimal, Decolonization: the British, French, Dutch and Belgian Empires, 1919-1963, Westview Press


訂正

在印英国官僚 3000人 在朝日本官僚 52270人
同 軍隊 67000人 同 軍隊 200000人(1914年) (1938年)
参考・人口 30301万人(1911年)  人口・2355万人(1940年)

参考文献:ナショナリズムについて
○ベネディクト・アンダーソン 『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 』(書籍工房早山)
○ホブズボーム『創られた歴史』(紀伊国屋書店)
○ゲルナー『民族とナショナリズム』(岩波書店)

西洋諸国の近代化において、ここで機能したのが、
 「ナショナリズム」のイデオロギー
- 「我々は太古から続く同じネーションの一員であり、運命共同体である」(それはどちらかといえば「物語」であって「事実」ではない)
しかし、
 だとしても、何故に「自分」が「他人」の為に死ななければならないのか?
(何故に、会ったこともない沖縄の人の為には死ななければならないのに、韓国やアメリカやアフリカの人々の為には死ななくても良いのか?)
→ これには結局、「同じネーションの一員」だから、という以上の答えはない
重要なことは、
 「ナショナリズムの時代」においては、このような強固な意識を有し、物理的・精神的に強大な動員力を有さぬ人々は、常に危機に晒されている、こと
Cf.「ネーション」の恣意性 - 何故に、ポルトガルとスペインは別の国で、広東と北京は同じ国なのか?
- 「文化的に同じ」というのは主観でしかない
→ その範囲は歴史的偶然に左右される
これが齎される条件は...
 ●経済的統合 - これにより人々の移動する範囲が大まかに決まる
 ●政治的統合 - 国境が確定され、これを超える人々の範囲が決まる
 ●文化的統合 - 教育・経済活動等により、人々が文化的に画一化される
→ この文化に適合できず「残された人々」は少数民族として、新たなる「ネーション」へと向かう
Cf.民主化 - 消極的だが、重要な動員装置 → 「みんなが決めたのだから...」
(甞ての国王のカリスマ性に代わる存在) 
 また、時に、冷静な個々人、に対する、感情的な集団
- 「私の子供」ではなくとも、「彼の子供」ではある
因みに、このことを象徴的に示しているのが、
 フランス革命とナポレオン戦争 - 何故に革命で荒廃したフランスが、経済的に先を行くイギリスを含む、ヨーロッパ全ての国と互角以上に渡りえたのか
→ 毎年15万人の新規徴募、愛国心+師団制による卓越した機動力(各個撃破)

ここまでのまとめ
1.植民地支配
 全く異なる、且つ相互の間に明らかに軍事的優劣がある二つの集団(文明)が衝突し、一方が他方を支配するに至る関係
2.近代化 - 特に19世紀以降の植民地化にとっての
 従って、ここにおいて重要なことは、軍事的に劣位にある側が「何らかの方法」を使って、他方を駆逐することによりはじめて解消されるのであり、その「何らかの方法」を運用するまでの過程が重要となる
→ システムとしての「全体としての近代化」
Cf.軍事、経済、イデオロギー(思想)、外交...
そして、
 ここで注意しなければならないのは、これが単に一方の他方に対する「武器」や「経済」の優劣に還元することができないこと
言い換えるなら、
 この時期における植民地支配とは、全く性質を異にする二つの一方が他方を支配すること - 「近代化」された社会と、「近代化」以前の社会
○「近代化」された社会
 国民が相互互換可能なまでに、共通の知識・教養・文化を所有し、互いに「同朋」であると認識し、「共通の目標」の為には、「共通のディシプリン」を以て行動できる社会
→ 「軍事」は勿論、「近代化」された社会における「政治」も、「経済」の活動もすべてこれを前提とする
そして、
 当然のことながら、このような社会が創造され維持される為には、一定の「装置」が必要 - 共通の「国民」イデオロギー、教育制度(「標準」の提供)
例・「標準」語、「文字」の末端までの普及、「9時5時」の生活習慣の徹底、日曜日休日制
○「近代化」以前の社会
 同じ「国内」であっても、複数の教養や文化、行動様式を有する人々が混在し、それ故、極めて狭い範囲でしか「共通の目的」の為の活動ができない
→ そのような社会においては、「危機」時において動員可能な資源が極めて限定される
これを非常に単純化するならば、
○「近代化」された社会 - 自覚的・実態的「国民」が存在する社会
○「近代化」以前の社会 - 自覚的・実態的「国民」が存在しない社会
さて、ここで興味深いのは、
 「近代」植民地支配が、ナショナリズムにより力を得た諸国が、ナショナリズムの根本原則に反する植民地統治≒他民族支配、を行う形式をとること
ゆえに、
 それは根本的な矛盾を有している - 「経済発展させてやった」から良いというものではなく、その支配の論理そのものが論理的に破綻している
∵ ナショナリズムの根本原則は、「自らをネーションであると考える集団」が、「自らがネーションであるが故に、自らの主権国家を持つことを希求すること」である
→ 自他共に「自らのネーションに属さない人々」を支配することは、ナショナリズムの時代においては、正当化され得ない
Cf.植民地支配とその下での経済発展 - これを容認することは、ある意味では「豊かな奴隷」であることを容認すること
ex.「マッカーサー改革による日本の繁栄」と「日本植民地支配下での経済発展」 - 後者を肯定するなら、前者を否定することは論理矛盾
さて、それでは、東アジア諸国はいかなる道を辿っていったのか


第三章 ウェスタンインパクトと東アジア - 各国のナショナリズムの違い

 以上に述べたように、東アジアにとっての「西洋の脅威」 - これが本当の意味を持ったのは、19世紀
→ その象徴としての「アヘン戦争」(1840~42)

CF. 16世紀には存在した、東アジアにおける東アジア諸国家と西洋列強の「力の均衡」
例・オランダの台湾支配崩壊
→ これは明らかに19世紀には崩壊 - 象徴としてのアヘン戦争 - 「大国」清の惨敗

しかし、それだけなら問題は単純
問題は、その問題に如何に対応し、また、対応できなかったか
 「量」が「質」に対抗できなかったこと → 以後、各国とも「質」の改良を余儀なくされる
それを改良する為の前提として、この「インパクト」を各国が如何に理解したか
 「情報」の処理 - 外界の「情報」をどのように解釈するか
1)経路 - 情報処理における「システム」の問題
2)解釈 - 情報処理における「文化」の問題 - 人は新しい「情報」を、自らが既に持っている「情報」≒知識、を基にしか解釈できない
3)目的形成 - 自らの価値観に応じた「目的」 - イデオロギーとしての文化
4)目的実現行為 - 目的と実行可能性のずれ

前提としての時間的制約

中国:アヘン戦争1842、アロー戦争1860、洋務運動1860年代以降、保守派再台頭1870s
日本:フェートン号事件1808、ペリー来航1853・1854、天保の改革(含西洋流砲術)1841、明治維新1867、西南戦争1877
朝鮮:丙寅洋擾1866、辛未洋擾1871、江華島事件1875、江華島条約1876、米朝修好通商条約1882、壬午軍乱1882、甲申政変1884

各国を具体的に見て見る
1)中国 - 「帝国」の苦悩
 アヘン戦争 - 結論的にいえば「ウェスタン・インパクト」として機能せず
A.中華思想 - 西洋列強の力を容易に認め得ず
→ しかし、それだけでは説明できない 
∵ 元来、東アジアで最も西洋諸国と交流があり、その文化の(部分的)受容も早かった清
→ そもそも西洋の武器を移入するだけなら、中華意識はそれほど大きな抵抗とはなり得ない
(例・紅威砲)
B.情報の伝達経路 - 北京の遥か彼方で行われたアヘン戦争+Top Downの清帝国
→ 「敗戦」の正確な情報をいかにして北京まで伝えるか
ここにおいて、情報を伝達する責を追う者 - 敗戦の当事者である帝国官吏
- 彼らにとっての最大の関心は、「文明の差」ではなく、「自らの処分」がどうなるか
→ 結果、彼らから皇帝に上がる情報は、「何故敗れたか」ではなく、「誰に責任があるか」が中心となる
CF.横行する「政治的責任論」の問題 - 責任をとることも大事だが、それに気をとられるばかり本質が見えなくなってしまってはいないか
結局、
 中国への本格的なウェスタン・インパクトは、第2次アヘン戦争における「熱河蒙塵」により、ようやく本格的に作用
→ 洋務運動までの20年のロス


第5講


2)日本 - 「封建国家」の意味
 天保の改革 - アヘン戦争を一契機とした改革
では、何故に、日本は中国が認識できなかったインパクトを認識できたか?
A.情報の伝達 - 他人の教訓の意味 cf.WW2イギリス戦 → イギリスではなく、ドイツやフランスで注目される
 自分に直接関係ないからこそ、冷静に判断できる
 具体的には、広州 → オランダ人/広東・福建人 → 長崎奉行所 → 幕府
B.テクノクラートとしての軍人
 「政治」(人事)よりも、軍事そのものへの強い関心
例・フェートン号事件(1808) - イギリス艦隊による出島襲撃
→ 佐賀藩を中心とする「西洋砲術」研究はこの時期に始まる
Cf.李承晩と朴正煕
同様のことは、
 ペリー来航についても言える → 朝鮮との比較へ

3)朝鮮
A.大院君の鎖国政策「斥和」
 1866フランス、1871アメリカの2回の江華島攻撃
丙寅洋擾
 フランス兵力 600名
辛未洋擾
 アメリカ兵力 800名
参考
 ペリー艦隊 1,080名
 アヘン戦争 19,000名
 アロー号戦争 16,700 - 50,000 名、173 隻

→ これに対する「本土決戦戦略」による撃退(戦艦5隻程度の戦力では本土決戦は不可能)
例・アヘン戦争 - 戦艦5隻、武装商戦4隻、本国艦隊2隻、ケープタウン3隻+2隻、陸戦隊4000人
  第2次アヘン戦争 - 英軍10000、仏軍6000、戦艦多数
結果としての、「鎖国」継続 - 対日開国1876年、西洋開国は1882年まで

では、何故このような無謀な行為が可能であったのか → 情報の不足
B.情報入手のルート+国際環境
 「出島」を欠いた朝鮮 - アジアの「行きどまり」としての朝鮮
→ 情報入手先は、3年に1回の燕行使に限定される(北京を通じての情報入手)
これは即ち、彼らへの「インパクト」が決定的に遅れることを意味する
加えて、
 大国清への信頼 - 第2次アヘン戦争後も「満州八旗の健在」を信じる(朝貢体制+満州経由)
Cf.「小国」意識 - 1873年末大院君政権崩壊後の「開国」政策
 しかし、この論理は日本のそれとは異なる
 ●日本 - 強大な西洋列強に対抗するためには、開国して西洋列強に学ばねばならない
→ この大前提としての「今は弱体だが努力すればできる」
 ●朝鮮 - 強大な西洋列強に対抗するためには、朝鮮の力だけでは到底不可能
→ 無理に西洋化を進めることは、体制を破壊し、かえって列強につけ込まれる
→ 「公正の国」を探して、これの支援を受ける必要がある(そのための開国)
重要なことは、
 これでは「開国」は「開化」に直接的に結びつかない、こと

江戸幕府
西暦 年号 年度 総歳入 米価 石高換算 t換算 軍事費 t換算 軍事費/歳入
1730 享保 15 798.8 0.609 1311 196
1843 天保 14 1543 1.086 1420 213
1844 弘化 1 2575 1.191 2162 324
1847 4 1561.7 1.151 1356 203
1848 嘉永 1 1442.7 1.077 1339 200
1849 2 1356.7 1.18 1149 172
1850 3 1442.7 1.229 1173 175
1851 4 1458.9 1.114 1309 196
1852 5 1793.7 1.151 1558 233
1853 6 1481 1.163 1273 190
1854 安政 1 2586.5 1.143 2262 339
1855 2 1718.1 1.114 1542 231
1856 3 2111 1.191 1772 265
1863 文久 3 5331 1.209 4409 661 469.763 58 8.8
千両 両/石 千石 千t 千両 千t
明治政府
西暦 年号 年度 歳入 米価 石高換算 t換算 陸軍費 海軍費 t換算
1875 明治 8 69483 7.28 9544 1431 6959736 2825843 201 14
1876 9 59481 5.01 11872 1780 6904829 3424988 309 17.3
1877 10 52338 5.55 9430 1414 6137293 3167512 251 17.7
1878 11 62444 6.48 9636 1445 7266010 2820514 233 16.1
1879 12 62152 8.01 7759 1163 8757161 3138750 222 19.1
1880 13 63367 10.84 5845 876 8610921 3415770 166 18.9
1881 14 71490 11.2 6383 957 8691948 3285718 160 16.7
1882 15 73508 8.93 8231 1234 9201465 3439654 212 17.1
1883 16 83107 6.26 13275 1991 12202774 6096496 438 22
1884 17 76670 5.14 14916 2237 11160305 6878748 526 23.5
1885 18 62157 6.53 9518 1427 10189894 5334129 356 24.9
1886 19 85326 5.6 15236 2285 11633151 8890808 549 24
1887 20 88161 5 17632 2644 12419674 9818276 667 25.2
1888 21 92957 4.93 18855 2828 12976848 9809556 693 24.5
1889 22 96688 6 16114 2417 14125703 9323158 586 24.2
1890 23 106469 8.94 11909 1786 15533079 10159304 431 24.1
1891 24 103231 7.04 14663 2199 14180167 9501692 504 22.9
1892 25 101462 7.24 14014 2102 14635252 9133106 492 23.4
1893 26 113769 7.38 15415 2312 14721226 8100921 463 20
1894 27 98710 8.83 11178 1676 10408936 10253154 350 20.9
1895 28 118433 8.89 13322 1998 10015935 13520269 397 19.8
1896 29 187019 9.65 19380 2907 53242524 20005758 1138 39.1
1897 30 226390 11.98 18897 2834 60147988 50394534 1384 48.8
1898 31 220054 14.97 14699 2204 53897653 58529902 1126 51
1899 32 254255 9.99 25450 3817 52551198 61661610 1714 44.9
1900 33 295855 11.93 24799 3719 74838202 58274895 1673 44.9
1901 34 274395 12.22 22454 3368 58381708 43979328 1256 37.3
1902 35 297341 12.66 23486 3522 49442059 36326188 1016 28.8
1903 36 260221 14.42 18045 2706 46884562 36117857 863 31.8
1904 37 327467 13.22 24770 3715 12088510 20613219 371 9.9
千円 円/石 千石 千t 千t
朝鮮王朝
西暦 年号 年度 歳入 米価 円元交換率 t換算 軍事費 t換算 軍事費/歳入
1895 高宗 32 1557 321 20.6
1896 33 4809 4.61 1 104 1028 22 21.3
1897 34 4191 5.32 1 78 979 18 23.3
1898 35 4527 7.04 1 64 1251 17 27.6
1899 36 6473 5 1.16 111 1447 24 22.3
1900 37 6162 5.27 1.27 92 1636 24 26.5
1901 38 9079 5.03 1.4 128 3594 51 39.5
1902 39 7586 6.19 1.78 68 2786 25 36.7
1903 40 10766 6.78 1.88 84 4123 32 38.2
1904 41 14214 6.91 1.98 103 5180 37 36.4
国王 千元 円/百kg 元/円 千t 千元 千t

註・「石高換算」、「t換算」はそれぞれ当時の米価で財政規模を米に換算したものである。

この結果、
1)日本 - 最も早い時期に近代化を開始、但し、その無理な方針転換は国内の大混乱(明治維新という体制崩壊≒変革)をもたらす
(実は、江戸幕府の官吏達の「目的」が何かを考えれば、ある意味では、彼等は「目的(幕府支配の維持・強化)」達成に明確に失敗)
ここで幸いであったのは、
 1860~70年代の世界 - 太平天国の乱(より大きな果実)、南北戦争(侵略国候補一位アメリカの後退、英の関心のアジアからの一時的後退)
   普墺・普仏戦争(欧州諸国、特に仏の関心の欧州への後退)
→ 日本はこの帝国主義時代の僅か10年の空白期を利用して、その最大の危機を乗りきる

2)中国 - 近代化を開始、しかし、改革は中途半端なものに終わり、以後、体制が緩やかに崩壊
→ 根本的なディレンマとしての「帝国」の「国民国家」への転換
A.満州族の帝国 - 「ナショナリズム」を利用しての動員が不可能
例・義和団 - 扶清滅洋か、滅清興漢か
Cf.「天皇」の欠如
B.どこまでが「中華」か - 近代的な国境線の確定
例・ 台湾 - 「化外の地」?
   琉球 - 日本か、中国か、独立国か
   朝鮮・ベトナム - 朝貢国防衛の為の出兵
しかし、
 結局、「国民国家化」が為されなかった結果、中国の開化は中途半端なものとなる

3)朝鮮 - 遅れた開国、為されなかった開化
 公正の国、探し - 候補としての、アメリカ(開国派)、清国(国王派)、日本(急進開化派)、ロシア(国王派・1880年代後期以降)
→ 結局、これは列強の度重なる介入を呼ぶこととなる
尤も、これを非難ばかりすることはできない
 ∵ 植民地化まで(更にはそれ以降も)自らの「体制」を保持した朝鮮王朝/大韓帝国 - 「目的」の達成
また、
 このような勢力均衡政策は、当時の朝鮮の状況を見れば、あながち不適切ではない
→ 清・ロシア・日本3勢力の競合 - 実際、この政策は1890年代までは成功とも言えないでもないものであった(大韓帝国の成立 - 「自立した」国家)


第6講

第四章 日本の「覇権」とナショナリズム

1880年代の状況
 1.日本 - 西南戦争を経て、ようやく国内の安定を獲得(幸運な10年)
 2.中国 - 同治中興による急速な「復興」
  例・李鴻章らの「北洋軍閥」による、日本に対する軍事的圧倒
  1882.壬午軍乱、1884.甲申政変 - 日本の中国に対する二度の「敗北」 → 1886.「長崎事件」 - 日本人の中国人に対する強い劣等感の出現
 3.朝鮮 - 「開化」へ踏み切れず → 露骨な「勢力均衡外交」の展開
  1888.第1次・第2次朝露密約 - 日清露三国を拮抗させることにより、自らの相対的な行動の自由を確保
重要なことは、
 ここまではそれぞれの進路が順調であったように見えること
しかし、
 周知のように、ここから日本が東アジアでの「覇権」を獲得してゆくことになる → 日本を勝利せしめたものは何か?
ここでのポイントは、
1.日本の軍事的膨張
 陸軍
  人員数
  1873年 16,000(概数)
  1876年 39,412(実数)
  1878年 42,017(実数)
  1888年 64,000(定員)、220、000(最大動員時)
  1893年 73,963(実数)
 註:1883年調査 近衛師団 3,340、6管鎮台 常備軍+予備軍 56,499後備軍25,353、合計 85,192
        + 内地守衛兵員 補充兵 8432、第一・第二予備徴兵 296,830
 制度 
  1874(徴兵制実施時) - 6鎮台、歩兵14個連隊
  1883 - 6鎮台、歩兵16個連隊
  1885(計画) - 歩兵8連隊、砲兵7連隊、騎兵・工兵・輜重各7大隊
  1888 - 7師団、歩兵14旅団、砲兵7連隊、騎兵2大隊、工兵6大隊半、輜重兵6大隊
 海軍
  1869 - 旧式艦16隻
  1883(計画) - 大艦6、中艦12、小艦12、水雷砲艦122
  1894(開戦時) - 戦艦6(3~4000t級)
 量的拡大
  1876年 14,300t → 1893年 50,861t

結局、1894年時で
 陸軍 - 動員兵力24万、海軍 - 59,000t

日清戦争

  日本陸軍 清国陸軍
動員兵力 24万 63/98万
  日本海軍 清国海軍
軍艦 28隻 82隻
水雷艇 24隻 25隻
総トン数 59,000t 85,000t

表はhttp://holywar1941.web.fc2.com/kindai-annai.html、より一部改編

因みに、清国
 陸軍 - 総兵力35万、63万人(98万人という数字も)を動員(うち、北洋陸軍3万人)、海軍 - ほぼ同じt数
→ これだけなら清国が特に劣勢という訳ではない
が、実際には、日本の圧勝に終わる
理由
 陸軍 - 練度の差、兵器の統一性、指揮の統一
 海軍 - 艦速の差、速射、使用火薬
→ ここで重要なのは、日本の方が「画一化」されていた、ということ → 「均勢」の取れた軍隊
この背景に存在していたのは、
 政治的・文化的双方の「画一的なシステム」の差
中国 - その巨大さから、日本程度の軍隊の「量」は比較的容易に揃えることができた
→ しかしながら、政治的改革が伴わなかった結果
 A)軍隊の私兵的な性格からの脱却の失敗 - 軍隊は「国」のものではなく「有力者」のもの
 B)政治システムの一元化の失敗 - 各地方の軍隊は各地方で「独自に」養成 → 兵器・練度のばらつき
 C)財政的規模拡大の失敗 - 1880年代の優位を維持・拡大、できず(日本は、1870年代からの20年間でほぼ財政規模を二倍にする)
逆に、
 この10年の間に、日本は国内政治システムの整備・画一化とそれによる、「国家の規模」拡大を実現することに
この延長線上に存在した、
 日露戦争 - 100万人以上の動員(戦傷病者だけで40万人以上)、兵器・装備の統一、艦隊行動の卓越、火力の優勢
これらの結果、
 1)日本の東アジアにおける「覇権」の確立
 2)中国の「大国」としての再登場の挫折
 3)韓国の「勢力均衡外交」の終了 - 状況の消滅

第五章 治安と調査の時代 - 植民地支配の開始(1895~1919)

 この一連の過程での日本の大陸への「侵略」開始
では、そもそもそれは何故、行われたか?
 経済的利益説 → 成立しない(政府内で討議された形跡なし+植民地支配直後の経済的無策)
言い換えるなら、
  領有の時点で、台湾や朝鮮を支配する経済的利益はほとんど考慮されれなかった
それでは何が原因か? - 「主観的な」国防上の理由
(政府、そしてそれ以上に世論 ex.日清、日露戦争時の世論の熱狂 - 内村鑑三「義による戦争」、福沢「北京進撃」、日比谷焼討事件、)
 1)近代国家成立に伴う - バッファーゾーン(朝貢国)の消滅 → 「曖昧な国境」の明確化
 例・朝鮮 - 朝貢国は中国の一部か独立国か(1876~1897)
   台湾 - 中国の一部か「化外の地」か(1874・台湾出兵) → 清の責任放棄による琉球日本領土の確定
   琉球 - 日本の一部か中国の一一部か独立国か(1879)
   マーシャル諸島 - ドイツとの競合(1883)
   小笠原諸島 - アメリカとの競合
   北海道・樺太・千島 - 千島樺太交換条約(1875) → 北方領土問題へ
   尖閣諸島、竹島 - 今日の領土紛争へ(「無主の地」の先取)
 CF.そもそも前近代における「主権国家」の「実効支配」、という矛盾 - 「固有の領土」????
 当初は、
  これを埋めるべく、「限界までの拡張」を試みる(~1880年代前半) → その延長線上の「侵略」
 2)焦点としての朝鮮半島の登場 - 中国による「実質支配」の浸透(1884~)
  → 「ロシア(中国)脅威論」の台頭の中、朝鮮半島が両国対立の焦点となる → 日本人の中に「朝鮮が取られると、日本も危うい」という「思い込み」が浸透
Cf.「朝鮮支配」は国防上「役に立った」か?- 結局は、海岸線で防衛しなければならない日本

「植民地」前史 - 二つの潜在的「植民地」
-1)琉球
 前近代における「曖昧な」琉球の地位 → これは宮古島島民虐殺事件(1871年)から台湾出兵(1874年)を経ての琉球「処分」(1879)により、「日本領」に
ここにおける明治政府内の議論
 ●「琉球」を支配することに利益があるか - 中国と対立してまでの利益の存在の何如
 ●「琉球人」は「日本人」 か - これは結局「日本人」をどう決めるか、の問題
当初
 明治政府の中には、琉球併合そのものに、消極的な者も 例・井上馨「琉球人は日本人でなく、琉球を支配することに益はない」
→ このような文脈から「分島論」も提起される(琉球併合後の日清交渉)
清国:奄美諸島・日本、先島諸島・中国、沖縄本島等・琉球王国(冊封関係維持)
日本:沖縄本島以北・日本、先島諸島・清国(日本への最恵国待遇を条件)
CF.分島案については、http://www.come.or.jp/hshy/j96/10si3.htmlをも参照のこと。
→ 一旦は日本案で合意するが、清国政府(特に李鴻章)の反対で挫折
 1879.4. 琉球併合 1880.10. 分島案議定 1880.11. 清国側交渉中断 1881.1. 交渉決裂 「清国の異議を受け付けない」
しかし、結局、
 明治政府は、その後、「琉球人」を「日本人」の一部分である、とする立場を取ることとなる → 参政権の付与・徴兵(但し、本土より遅れる)

本土 沖縄(本島) 沖縄(先島) 北海道 台湾・朝鮮
市町村制 1888年 1921年(市制実施) 1920年(特別町村制廃止) 1922年(市制実施)
府県会 1878年 1909年 1918年 1901年
衆議院選挙 1890年 1912年 1917年(実施1919年) 1900年(札幌・函館・小樽)
1903年(全土)
徴兵制 1873年 1885年 1903年 1889年 1944年

CF.先島については、http://www.come.or.jp/hshy/j96/10si3.htmlhttp://miyakojima.net/rekisi/1876.1927.htm、をも参照。また、同様の事例として、欝陵島と竹島に関する議論の混乱について、http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/dajou_ruiten.pdfhttp://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/index.html、等。

→ それと平行した、準備作業としての「琉球人」の「日本人化」のための施策

-2)北海道
 言葉の本来的な意味での「植民地」としての北海道 - 内地からの大量の「移民」 → 内地人が多数派を形成する社会
ここにおいては、
 「北海道の住民」が「日本人か否か」、更には彼等、参政権を与え、見返りに徴兵を行なうか否かは、大きな問題とはならない
結果としての、
 「マイナーな」問題としての「土人」(アイヌ)問題が出現 → 「土人保護法」(1895年)へ
ここにおいて言えることは、
 琉球と北海道においては、「日本人」の境界線にある人々を、明治政府が、
1)日本人の定義の中に含め、2)その定義に見合ったものに彼等を変えて行くように、仕向けて、行ったこと

Cf.日本独特の「無責任体制」を巡る議論 - リーダーシップなき日本型リーダーシップ(リーダーが集団の進むべき方向性を示さない)
これは、
 集団の成員の間に「何をすべきか」について明確な合意が存在する時には、有効に機能する → しかし、目標が不明確な際には手足がばらばらに
→ このような状況は、第二次世界大戦以前の国家体制においては典型的に表れる
(∵ 本来制度的にトップダウン的役割を期待されている天皇が、実質的にリーダーシップを発揮することが困難な状況におかれているから → 「元老」達がいなくなってこの状況はより顕著になる)

Cf. 「元老」とは誰か
氏名 出身 生没年/元老受命年月日
伊藤博文 長州 1841年(天保12年) - 1909年(明治42年) 1889年(明治22年)11月1日受
黒田清隆 薩摩 1840年(天保11年) - 1900年(明治33年) 1889年(明治22年)11月1日受
山縣有朋 長州 1838年(天保9年) - 1922年(大正11年) 1891年(明治24年)5月6日受
松方正義 薩摩 1835年(天保6年) - 1924年(大正13年) 1898年(明治31年)1月12日受
井上馨 長州 1836年(天保7年) - 1915年(大正4年) 1904年(明治37年)2月18日受
西郷従道 薩摩 1843年(天保14年) - 1902年(明治35年) 正式の任命手続きを経ていない。
大山巌 薩摩 1842年(天保13年) - 1916年(大正5年) 1912年(大正元年)8月13日受
桂太郎 長州 1848年(嘉永元年) - 1913年(大正2年) 1912年(大正元年)8月13日受
西園寺公望 公家 1849年(嘉永2年) - 1940年(昭和15年) 1912年(大正元年)12月21日受

ところで、植民地とは何か? → 言い換えれば、「本国」と同じでない地域とは何か?
1)客観的基準・当該地域における民に、本国の住民と異なる待遇が与えられている
→ 通常は、本国住民とは異なり、「国民」としての権利(+義務)が同等に与えられ、保証されていない
→ 本国とは区別された「異なる地域」として扱われる(その扱いは千差万別)
CF.但し、一般的には、植民地住民に直接、異なる「権利」が与えられることは多くない(特にイギリス植民地)
 ∵ 住民管理上の困難 - ex. 1861~1914 フランスにおける旅券・査証の廃止、露骨な法的「差別」の回避
→ 結果として、地域によって、適用される法律が異なることに
CF.中間的形態としての自治領
 「異法地域」だが、内政については、自ら決めることができる
その正当化事由としての、
 「民度」の低さ - 参考・当時における参政権制限の普遍性
(20世紀初頭まで、アメリカ・フランス等の極少数の例外を除けば、参政権は基本的に、「財産と教養のある男性」に限定されていた
 例・イギリス(1918)、フランス(1848)、ドイツ(1919)、アメリカ(1776、1920)
2)主観的基準 - 当該地域住民が、自らへの異なる待遇の原因を、自らが異なる「民族/国民」であるからだと認識している
→ 「民度」の違い、を、出自の違いによる差別であると住民が認識しなければ、この地域は異なる方向へと導かれる → 「自由民権運動」へ(参政権要求)
逆にいうならば、
  彼等が自らを本国住民と異なる「国民」と看做すのであれば、運動は「独立議会」「自治議会」へと展開する


第7講

Cf. 台湾の基礎知識 - 複雑な「民族」構成
 漢族系
  1)本省人
   =福建系(約70%)+客家系(約15%)
  2)外省人(約15%)
 マレー系(1~2%)
  高山族(不漢化)=一二部族
  平埔族(漢化)=二部族
(公認のみ。実際にはもっと多いと言われる)

さて、ここにおける、

 「日本最初の植民地」としての「台湾」 - 何故、琉球や北海道のようにならなかったか(+文化的相違の幅)
1)人口の多さ - 北海道におけるアイヌ、或いは沖縄との相違
2)抵抗運動の激しさ - 沖縄との相違
Cf.日清戦争における台湾 - 戦場にならず
→ 割譲が決まってからの「平定作戦」(フィリピンとの類似)

具体的には、
 1895.5.8.日本台湾領有
    5.11.樺山台湾事務局設置案
    5.21.台湾総督府仮条例決済(樺山)
    5.28.樺山総督基隆投錨
    6.1.引き継ぎ完了
    5.29.上陸作戦開始
    6.5.樺山総督上陸
    6.7.台北入城
    6.14.樺山入城
    6.17.始政式典
    6.28.地方官仮官制
    7.18.内閣軍政を樺山に打診「鎮圧の為」
    8.6.台湾総督府条例「全島鎮定に至る迄・・・」
Cf.憲兵 - 1895・5個分隊 → 1901・4個分隊 → 1904往時の1/10に 

1)台湾民主国
2)高砂族(高山族)
→ 諸社会勢力の統治への屈伏
ここにおける日本軍の苦戦 - 2個師団強、計5万人(+軍夫3万6千人) → 司令官(北白川宮能久)を含む7千人が戦病死
(結局、1916年までに、戦死1988、戦病死7604←→日清戦争 戦死1161、戦病死7234)
Cf.西南戦争 - 戦死者(両軍)約1万2千人、戦傷者数3万人以上

靖国神社の祭神数(註・戦病死者含む)
明治維新前後の内戦 7,751人
西南戦争ほか 6,971人
日清戦争 1万3,619人
台湾出兵ほか 1,130人
北清事変(義和団事変) 1,256人
日露戦争・韓国鎮圧 8万8,429人
第1次世界大戦・シベリア出兵 4,850人
済南事変(山東出兵)など 185人
満州事変 1万7,175人
日中戦争(靖国神社は「支那事変」と呼称) 19万1,218人
太平洋戦争(靖国神社は「大東亜戦争」と呼称) 213万3915人
CF.台湾鎮圧作戦は、「戦争」とは位置づけられず - 日清戦争とも数字の違いの原因

第一期 1895 島民死者1万7千/人口300万(1/180の人命が失われる)
第二期 1895~1902
第三期 1902~1916
Cf.1874年の台湾出兵でも573名が戦病死(54漂流民虐殺)
この結果、
 「平定作戦」のための「軍政」 - これがその後の日本支配の原形となる
           
ここにおいてまず生じたのは、
 「軍政」の結果として、総督が自らの権限を以て、「律令」を出すことができるようになる
→ 住民+帝国議会の支配を外れての、官僚的支配が可能に
例・「六三問題」(明治29年法律63号問題) - 事実上帝国憲法の適用されない地域に (この法律により1896年から1921年まで)
この結果、得られたのは、「主義方針なき」統治
それでは何故、日本はこれ程まで無理をして台湾を統治したか?
 「一流国とは植民地を持ち、これを統治できる能力を持つ国のこと」 → 条約改正をも視野

参考資料

 法律第六十三號(官報 三月三十一日)
第一條 臺灣總督ハ其ノ管轄區域內ニ法律ノ效力ヲ有スル命令ヲ發スルコトヲ得
第二條 前條ノ命令ハ臺灣總督府評議會ノ議決ヲ取リ拓殖務大臣ヲ經テ勅裁ヲ請フヘシ
臺灣總督府評議會ノ組織ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第三條 臨時緊急ヲ要スル場合ニ於テ臺灣總督ハ前條第一項ノ手續ヲ經スシテ直ニ第一條ノ命令ヲ發スルコトヲ得
第四條 前條ニ依リ發シタル命令ハ發布後直ニ勅裁ヲ請ヒ且之ヲ臺灣總督府評議會ニ報吿スヘシ
勅裁ヲ得サルトキハ總督ハ直ニ其ノ命令ヲ將來ニ向テ效力ナキコトヲ公布スヘシ
第五條 現行ノ法律又ハ將來發布スル法律ニシテ其ノ全部又ハ一部ヲ臺灣ニ施行スルヲ要スルモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第六條 此ノ法律ハ施行ノ日ヨリ滿三箇年ヲ經タルトキハ其ノ效力ヲ失フモノトス

台湾における「土匪平定」における台湾側被殺戮数

年度

捕縛または護送の

際の抵抗によるもの

裁判の判決によるもの

討伐隊の手によるもの

合計

1898

166

84

2850

3100

1899

324

507

3

834

1900

468

873

9

1350

1901

682

997

311

1990

1902

4033

537

106

4676

合計

5673

2998

3279

11950

 











 

 山辺健太郎編『台湾』I、みすず書房、1971年、xxxiページより筆者作成。後藤新平の関係の記録による。

もう一つの要素としての、日本の支配のためのイデオロギー(正統化の為の理屈付け) - 日本の「論理」

 1)モダナイザー(近代化の体現者)としての日本 - 中国が支持する「守旧派」に対して、「開化派」を支援する(於・朝鮮)
 Cf.開化派 - 朝鮮の体制が開化を不必要としている以上、彼等は政権を「覆す」必要が存在する
   → 日本は「体制の敵」として、暴力的な存在として表われる
   → 日本が先制し、中国がこれに(量を以て反撃する)パターンの出現
 2)主権国家論者としての日本
   - 曖昧な朝貢体制を保持・実質化することを目標とする中国に対して、主権国家原則に基づき、朝鮮が独立した国、であると主張
 3)アジア連帯論者としての日本(1.との、矛盾と競合)
   → 「脱亜入欧」かアジア連帯、か cf.脱亜論 - 1884
この結果、
 1894年頃までは、日本の「主張」や「進出」は、開化派を中心に行われ、朝鮮内部にも一部の支持者を有する
しかしながら、
 1895 - 台湾領有、朝鮮半島における一時的な日本覇権確立
→ ここにおいて、日本が本当に「近代化の体現者」であり、アジア人を自らと対等に扱う「アジア論者」であるか否かが問われる
この帰結としての、
 甲午改革 - しかし、この改革は朝鮮内部の反対で挫折 → ここでのディレンマ - 「拒否された改革」をどうするか
1)脱亜論 - アジアを見殺しにする、と同時に「放っておく」 → 軍事的(認識)理由の故にできないと「認識」される - 剥き出しの武力主義
2)アジア主義 - アジアのために「邪悪な勢力」と戦う → この表れとしての「閔妃暗殺」
→ これは逆に朝鮮の親日派をして窮地に追い込むことに → 露館播遷
Cf.内政干渉か、普遍主義、か - GHQ改革との比較(ナショナリストの矛盾)
→ 以後、朝鮮半島においても、台湾においても、日本は「改革を強制するもの」として現れてくる
また、
 ここで見落としてはならないものとしての、日本人のアジア人意識の形成
 江戸期以前 - 現実と無関係なものとしての「外国」 - 日本・唐・天竺・南蛮
  儒家 - 「儒教の先進国」への憧れ
  武士 - 「軍事的弱国」への優越観(或いは「侵略の対象」 - 文禄・慶長の経験)これらの曖昧な「イメージ」が、「文明開化」の中で、「儒教」に代表されるアジア的価値が否定されていくことにより、一つへと集約されて行く
→ 「遅れていて」それ故「不潔で」「可哀想」なアジア - アジア文化の否定に基づく「西洋的」単線的歴史認識の中での「先進」「後身」
→ 実は、これは欧米人が非西洋圏に対して持っていた意識を「日本的に」受容したもの(日本を「例外」とした、受容)
Cf.「差別」の論理 - 不潔・怠惰・性的乱れ(これはある人々が他を差別する際に常に表れる)
そして、
 アジア主義者がその前提として有する「助けてやらなければならないアジア」観も、実はこのような「可哀想な」≒「無力な」≒「愚かな」アジア観を基礎にしている
→ 「自分で改革できないのだから」「我々が強制的にやってやるしかない」
言うまでもなく、
 この背景にあるのは、日本ナショナリズムの高揚 → 自らの民族の賞賛の副産物としての、他民族侮蔑
→ 「我が民族はxxだが、他の民族はそうではない」
これは自由主義者や民衆も例外ではない
 福沢諭吉 - 北京まで進軍せよ(日清戦争)
 尾崎行雄 - 南満州租借論(日清戦争)
 日比谷焼き討ち事件(日露戦争)
→ 重要なことは、植民地人がこのような意識を有する「個々の日本人」と向き合わねばならなかったこと → 政策と異なるレベルでの反応へ


第7講

日本にとっての朝鮮半島

背景
 「国防的」理由による朝鮮半島進出 → 日清戦争後、これは現実のものとなる
→ ロシア太平洋艦隊を「凍った海」に閉じ込めることができるか+シベリア鉄道の京義線・京釜線との連結

台湾からの「教訓」- 「総督府」による「軍政」
 この「教訓」は朝鮮においても受け継がれるしかし、
 重要なことは、本来、朝鮮においては台湾とは事情が異なっていた、ということ
1905~1907 保護国前期 - 主として外交面の管理、内政面の「指導」(財政改革、戸籍制度改革等)
1907~1910 保護国後期 - 内政面においても管理
この過程における、
 第2次義兵運動(1907~1909) - これに対する「効果的な」弾圧 → 戦闘回数2800回、延人数14万名、動員兵力憲兵6700名+1個師団+1個旅団 - 義兵側18000人戦傷
この過程が意味しているのは、
 1)漸進的な統治の準備
 2)その帰結としての「治安獲得」後の支配 - 「台湾の教訓」の現実への適用
即ち、
 朝鮮においては、直接支配開始時においては、既に甞て台湾に存在していたような「軍政を必要とする状況」は存在していなかった
→ にも拘らず、朝鮮半島では、台湾以上に「整備された」軍政がひかれる - その象徴としての「憲兵警察」(1920年代まで)

参考資料

朝鮮総督府官制(明治43年勅令第354号)

第一条 朝鮮総督府ニ朝鮮総督ヲ置ク
2 総督ハ朝鮮ヲ管轄ス
第二条 総督ハ親任トス陸海軍大将ヲ以テ之ニ充ツ
第三条 総督ハ天皇ニ直隷シ委任ノ範囲内ニ於テ陸海軍ヲ統率シ及朝鮮防備ノ事ヲ掌ル
2 総督ハ諸般ノ政務ヲ統轄シ内閣総理大臣ヲ経テ上奏ヲ為シ及裁可ヲ受ク
第四条 総督ハ其ノ職権又ハ特別ノ委任ニ依リ朝鮮総督府令ヲ発シ之ニ一年以下ノ懲役若ハ禁錮、拘留、二百円以下ノ罰金又ハ科料ノ罰則ヲ附スルコトヲ得
第五条 総督ハ所属官庁ノ命令又ハ処分ニシテ制規ニ違ヒ公益ヲ害シ又ハ権限ヲ犯スモノアリト認ムルトキハ其ノ命令又ハ処分ヲ取消シ又ハ停止スルコトヲ得
第六条 総督ハ所部ノ官吏ヲ統督シ奏任文官ノ進退ハ内閣総理大臣ヲ経テ之ヲ上奏シ判任文官以下ノ進退ハ之ヲ専行ス
第七条 総督ハ内閣総理大臣ヲ経テ所部文官ノ叙位叙勲ヲ上奏ス

勅令第三百二十四號
第一條 朝鮮ニ於テハ法律ヲ要スル事項ハ朝鮮總督ノ命令ヲ以テ之ヲ規定スルコトヲ得
第二條 前條ノ命令ハ內閣總理大臣ヲ經テ勅裁ヲ請フヘシ
第三條 臨時緊急ヲ要スル場合ニ於テ朝鮮總督ハ直ニ第一條ノ命令ヲ發スルコトヲ得
前項ノ命令ハ發布後直ニ勅裁ヲ請フヘシ若勅裁ヲ得サルトキハ朝鮮總督ハ直ニ其ノ命令ノ將來ニ向テ效力ナキコトヲ公布スヘシ
第四條 法律ノ全部又ハ一部ヲ朝鮮ニ施行スルヲ要スルモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第五條 第一條ノ命令ハ第四條ニ依リ朝鮮ニ施行シタル法律及特ニ朝鮮ニ施行スル目的ヲ以テ制定シタル法律及勅令ニ違背スルコトヲ得ス
第六條 第一條ノ命令ハ制令ト稱ス

さて、いずれにしても、
 こうして定着した「台湾モデル」の意味 - 大日本帝国憲法体制からの排除 - 住民の参政権の剥奪
→ この説明としての「発展の程度」(←→制限選挙制度)
当然のことながら、
 これは台湾・朝鮮において非常な反対を齎すことになる - 特に朝鮮においては、旧制度において存在した「全ての人の上昇へのチャンス」が全くなくなってしまうことへの反感大
Cf.科挙制度における台湾の特殊性(実施されず)
Cf.朝鮮における師範学校欠如、朝鮮人教育と内地人教育(併合時既に310校)の区別、義務教育なし、普通学校4年制
そして、
 これは日本が唱えた「アジア主義」への重大な裏切りでもあった - 「アジア人」を認めない日本 → 当初は日本に希望を有していた人々をも絶望させる

参考
 当時の朝鮮半島や台湾の教育事情
 1)実質的な民族分離教育
  朝鮮:「国語を常用する者」と「国語を常用せざる者」
  台湾:「日本人」、「本島人」、「蕃人」
 2)教育年限の違い
  「国語を常用する者」6年+5年、「国語を常用せざる者」4年+4年
 → 後者は修業年限が足りないので、大学受験資格がない
 →だからこそ、台湾や朝鮮のエリートが内地の大学に行く為には、中等学校から内地に留学する必要があった
 → 彼等の早い者は1900年代後半から留学を始め、1910年代半ばから卒業を開始
 → が、彼等は日本でも、台湾・朝鮮でもエリートとして任用される機会がなかった

即ち、
 植民地支配開始時における少数ながらも「親日的」であった勢力+親日的になる可能性のあった人々(日本留学生)の失望
→ 台湾における「台湾議会設置運動」 、朝鮮における「二・八独立宣言」 - ともに東京留学生が主体的な役割を行なう
∵ 彼等は日本人と同等、それ以上の資質を持ちながら、日本人と同等の権利を与えられなかった
Cf.ガンディー - 英国における教育、南アフリカにおける経験 → 独立運動へ
これら、
 「日本化した学生」が反日運動の先頭に立ったことこそが、その後の日本統治の行方を、象徴することに
ここにおける台湾と朝鮮の相違
 朝鮮王朝 - 曲がりなりにも全ての「エリート」に立身出世の道が開かれる
(日本統治は、彼等の「出世欲」にとっては障害以外の何ものでもない)
 台湾 - 科挙制度から「公的には」除外された地域(中国系住民にとってももともと「出世」の道は狭い)
加えての、「もともと差別された」少数民族の存在 → 最も植民地支配に抵抗した人々が、後に最も親日的に
(彼等にとっては、自分達が、「徐々に」社会の中心部に、入り込む契機として考えられる)
さて、このような日本の「武断」統治
重要なことは、
 この強大な「物理的強制力」を前提に様々な「調査」が行なわれたこと - 支配のための「予備調査」 → 土地調査・戸籍調査・旧慣調査等々
Cf.ここにおける支配の拠点としての「交番」 - 戸籍まで管理、事実上の「役所」
興味深いのは、
 ここで日本が、1)自らの支配のあり方については本国と全く異なる制度を用いながら、2)支配のための「調査」においては本国と同じことを行なっていること
→ これは究極的には、本来、バーターとなるべき「権利」と「義務」について、前者を与えず後者を科すために予備的な調査を行なっているかのように見える
しかし、実際には、
 徴兵 - 行われず、徴税 - 本国より軽微(間接税+本国送金依存)
→ 何のための「徹底的な」調査だったのか?? - 支配の無計画性
(徴兵を行なわず、税も間接税に依存するのなら、そもそもその必要があったのか)
が、このような「徹底的な調査」の結果、
 他の植民地支配とは異なり、台湾・朝鮮においては、「日本の支配」が植民地の人々の末端においてまで「実感」されることとなる
CF.日本統治への「不満」(例・『現代史資料25 朝鮮1』421、432ページ)
 1)共同墓地規制(共同墓地への埋葬強制)、2)桑苗配布反対(商業作物奨励)、3)内地人との差別待遇(賃金等)、4)税金附加(額よりも内容・煙草、屠畜等)、5)願届 → 特に現地慣習の実質的変更を要求するものに対して抵抗大
その象徴としての、
 学校(但し、義務教育に非ず)、交番、後には、地主・高利貸し- 「ムラ」の末端においても存在する日本人
そして、これらの日本人が朝鮮人・台湾人に差別意識を持って当たったことが、彼等に「自分達が支配者と異なる人々である」ことを実感させることに
Cf.日本との相違 - 「調査する者」と「調査される者」の間の意識
→ エリートと一般民衆の共通認識の登場
これらの結果としての、
 「三一運動」 - 何故に反日運動は、九年間の「平穏」の後に、勃発したか
- 九年間の日本統治の浸透と、「日本化」こそが、彼等をして「日本統治が何であったか」を理解させる
(ソウルで始まり、地方に拡散した運動)
Cf.ウィルソンの「平和のための一四原則」の効果 - 韓国ナショナリズムにおける「特殊な国」としてのアメリカ
また、
 三一運動の「台湾議会設置運動」との(エリートレベルでの)類似性 -上昇移動に挫折した「最も日本化した人々」≒日本留学経験者たちにより、はじめられた運動
→ これに「日本支配」を実感しはじめた一般の人々が対応 - 特に朝鮮半島においては、全国的な運動となる

人口500万人以上の植民地(1935年頃)

地域名

人口

調査年

宗主国

備考

英領インド

338,119

1931

イギリス

 

蘭領インド

65,420

1935

オランダ

 

仏領インドシナ

23,000

1938

フランス

 

朝鮮

22,899

1935

日本

 

ナイジェリア

20,191

1936

イギリス

 

フィリピン

15,984

1938

アメリカ

 

ビルマ

15,360

1937

イギリス

 

仏領西アフリカ

14,550

1936

フランス

 

白領コンゴ

9,301

1935

ベルギー

 

アルジェリア

7,235

1936

フランス

 

モロッコ

6,295

1936

フランス

 

セイロン

5,758

1937

イギリス

 

タンガニーカ

5,386

1935

イギリス

ザンジバルを含む

台湾

5,212

1935

日本

 

 

千人

 

 



















http://www.library.uu.nl/wesp/populstat/populhome.htmlより筆者作成。但し、英領インドは、B.R.ミッチェル編『マクミラン統計年鑑』原書房 、1985年、の各所、仏領インドシナはグザヴィエ・ヤコノ『フランス植民帝国の歴史』平野千果子訳、白水社 、1998年によった。数値は基本的に国勢調査等によるもの。

三一運動の参加者と死傷者数

運動参加者

韓国側死傷者

日本側死傷者

3月1日~10日

60,395

286

27

3月11日~20日

68,722

114

17

3月21日~31日

144,322

243

42

4月1日~4月10日

179,681

516

49

4月11日~4月20日

9733

40

5

4月21日~4月30日

233

0

1

合計

463,086

1,199

141

 










註・金正明編『朝鮮独立運動』I、原書房、1967年、703ページ以下より筆者作成。


第8講

第六章 独立運動の挫折と植民地開発(1919~1931)

台湾・韓国双方における、
 1919頃 - 日本植民地支配が何であるかを知った上での抵抗運動(←→植民地化過程での運動)の勃発 - ここには日本植民地統治の特性が如実に表われる
(三一運動・1919.3.1.、六三法撤廃期成同盟・1918、台湾議会設置請願書・1921)
日本植民地支配の「交差点」としての1919~1921
 0.調査事業の終焉
 1.台湾における三一法(六三法の後継)失効期限
 2.原内閣の成立(内地法延長主義者としての原、陸軍<山県・桂>と政友会<伊藤 → 西園寺・原>の対立)
 3.高宗の死去(1919)
 4.第一次大戦の終結と、ウィルソンの平和のための一四原則
 5.世界各地における民族運動の高揚
 6.「大日本帝国」の完成 - 1890内地、1920外地、1941勢力圏
 7.大規模な戦後恐慌
この問題を理解する二つの論理的にありうべき可能性
1)植民地における民主化 - 参政権の実現(←これは内地における自由民権運動の延長線上にある,、沖縄型の解決)
2)「朝鮮/台湾」の「日本」との関係 - 同化・自治(連邦制)・独立
これに対する、日本側の即時的対応 - 徹底した「鎮圧」活動
 朝鮮(三一運動) - 検挙人員13157人、死亡人員553人、負傷人員1409人(3月中)
              運動回数3220回、逮捕者総数28443人、検事処分数19525人、起訴者数9441人(1919年中)
 台湾(台湾議会期成同盟)- 請願者数17262人(1~15回)、禁固7人、罰金6人 
さて、ここからの対応 - 特に巨大であった三一運動の衝撃
1.日本側
 まず、重要なことは、植民地人の「参政権」への要求 - 認めず
ここにおける理由づけ(仮説)
 朝鮮/台湾の「大きさ」 - ここから本当の意味で衆議院選挙を行ってしまうと、全議員の1/3以上が植民地出身議員で占められてしまう(同化、の不可)
→ これは「民権派」の議員にとっても大きすぎる決断(←→沖縄との相違) → この時期における「多民族国家」としての日本
ここにおいては、同時期の「デモクラシー」がマイナスに機能する
 CF.同時期におけるアイルランドの経験 - 参政権が与えられることにより、アイルランド民族政党(アイルランド国民党等)が、第三勢力として、イギリス議会で一躍キャスチングボードを握る(1880-1910 下院670議席中、60-80議席前後)
当時のイギリスのデータは、http://en.wikipedia.org/wiki/United_Kingdom_general_election%2C_1880、など。
→ 同時代人としてこれを見ている、日本の政党政治家は、既得特権維持のためにも、その可能性を少なくとも「先送り」する
他方、
 「自治議会」 - 「一視同仁」の放棄は植民地政策「理念」の全面的な転換を意味する(これまでの統治の否定) → 不可能
これらの理由により、
 日本側は、植民地側の「参政」の要求には直接答えることなく、他の手段を使ってこの動きを押えようとする(矛盾の根本的解決の先延ばし)
この手段として、
 (A)「統治機構」の見直し - 文官総督可能化、朝鮮軍司令官との分離
 (B)「憲兵警察」制度の廃止 - 「普通警察」へ
 (C)府・面「協議会」の設置 - 各々の諮問議会の設置(←→中枢院) - 25才以上家長、5円以上府税(府+指定面)、郡守・島司の任命(面)
CF.中枢院については、朝鮮総督府中枢院官制(明治43年勅令第355号)
   道「評議会」 - 道知事諮問機関、2/3候補推薦選挙+1/3直接任命
CF.このような手段により、一部有力者を取り込んだ、ことが、1945年以後の韓国・台湾における「対日協力者」を巡る問題を複雑化させる
→ 明らかに日本と関係を有した人々、特に在地社会の有力者達が、そのことにより、解放後、政治的・社会的威信を大きく喪失する
その結果、
   (A)在地社会の「国家」への抵抗力縮小 → 権威主義体制
   (B)戦後韓国・台湾社会における「親日派」人脈の壊滅 - 日韓・日台外交の困難化
   (C)文化政策 - 現地語新聞等の許容、帝国大学設置、朝鮮会社令の撤廃、師範学校設置
Cf.学校教育 - 四年制普通学校517(六年制小学校[国語]380)、普通高等学校6、女子高等普通学校6、専門学校6、実業学校22、簡易実業学校67、各種学校690(1921朝鮮)
 4年(普通学校)+4年(高等普通学校) → 4~6年(普通学校)+5年(普通高等学校)+2年(専門学校)
第二次朝鮮教育令 1922
 「第二条 国語ヲ常用スル者ノ普通教育ハ小学校令、中学校令及高等女学校令ニ依ル但シ此等ノ勅令中文部大臣ノ職務ハ朝鮮総督之ヲ行フ 」
使用言語は、
 「朝鮮語と漢文」以外は日本語 → やがて1937年になると、授業時間以外でも日本語 → 1938 朝鮮語教育廃止
台湾1922 - 小学校[国語]133、公学校592、中学校8、高等女学校6、実業学校、専門学校
 但し、高砂族に対しては、4年生・公学校
第二次台湾教育令 1921
「第二条 国語ヲ常用スル者ノ初等教育ハ小学校令ニ依ル 第三条 国語ヲ常用セサル者ニ初等教育ヲ為ス学校ハ公学校トス」
使用言語は、
 1912 日本語教育における現地語使用禁止 → 1937 「漢文」教育廃止
 目的 - 国語普及、日本精神涵養「時勢と民度に適応した教育」
また、
 帝国大学の設置 - 1924年(予科)/26年(本科)・京城帝国大学(法文学部、医学部)、1928年(本科)/41年(予科)・台北帝国大学(文政学部、理農学部)
→ 但し、これらの大学においても入学者の大多数は、内地人であった

使用言語 日本語(入学試験を含む)
学生比率
1924年  75% vs 25%(法文学部)
1937年  70.2% vs 29.8% (大学全体)
1942年 60.4% vs 39.6% (大学全体)
教員 教授以上はほぼ全員日本人

CF.兪鎮午(第1期法学科首席)
→ 大学院に進学するも、京城帝国大学教員に採用されず
→ 普成専門学校(今日の高麗大学)へ

Cf.1919年を境にする、日本の「対朝鮮人意識」の変化

Cf.内地における参政権
「異法地域」としての植民地 - その具体的表れとしての、衆議院選挙選挙区の不設置(実質的な選挙権剥奪)
逆に言うなら、
 植民地の出身者であっても内地は選挙権・被選挙権あり(内地人でも、「異法地域」では選挙権・被選挙権なし)
しかしながら、内地における選挙権も実質的には大きく制限される
 1)1925年以前の、制限選挙 - 所得の少ない植民地出身者は大きく排除される
 2)「密航者」の問題 - 住民としての登録を行わない/できない
 3)絶対的な人口の少なさ

さて、これに加えて重要視されたものとしての、(D)経済開発 - 特に産米増殖計画(朝鮮/台湾)
 背景
①米騒動 - 内地の米不足を補うための供給地としての植民地利用
②台湾における製糖業「開発」の経験 - 児玉・後藤コンビによる「先取りされた『開発』」
Cf.共通の目標としての財政の「独立」
Cf.植民地経済の「上からの開発」は歴史が新しい - イギリスにおいては、それが本格的に開始されるのは、1890's(ジャマイカ)
③総督府の財政難 - 1)一般会計補充金の打ち切り(1918)、2)朝鮮軍拡大(2000名)、3)普通警察機構拡大(5402→15392名)
→ しかし、これを補うための増税は困難 → 経済開発による税収+官業収入(特に鉄道収入)増加を図謀
④在地有力者(地主)の取り込み - 彼等に経済的インセンティブを与えることで、植民地支配を容易化する(三一運動において鍵を握った地主層)
ここにおける具体的な施策
 第一期・農事改良、水利組合 - 現実には「調査」が重要
 第二期・低利資金斡旋(東洋拓殖株式会社+朝鮮殖産銀行)、朝鮮人地主重視、農事改良(自給肥料・優良品種・耕種法等)、地主組織化「農会」
その成果、1920~1922期から1930~1932期に、
 昭和恐慌での挫折までに、 総生産量 1470 → 1713万石(+240万)、輸出量 295 → 725万石(+430万) - 特に、品種改良、金肥、栽培法改良
→ これにより日本の外米依存率は8%から0に近づく(食料自給と経常収支改善)


第9講

ここにおける構造
 巷間言われる「飢餓輸出」 - しかし、それは「日本人が米を物理的強制力を以て無理やり供出させ、買い叩いた」ことを意味しない
→ ここでの最大のポイントしての、内地と外地の「購買力」の差
当時の制度
 金銀複本位制 - 各国の経済「力」は究極的には、どれだけ「金銀」を集めることができるか
そして、ここにおいて、
 より大きな購買力を持つ者のそうでない地域への進出 → 被進出地域には、インフレ/バブルが起る
→ 刺激されての経済的発展+急速な物価上昇 → GDPの成長( 内地より大)にも拘らず、「生活物資」不足が起る
→ より「購買力」の低い地域からの「生活物資」輸入
Cf.これを埋めるものとしての、満州からのコウリャン等の移入
重要なことは、これと同様の過程は、他の植民地においても見られること
→ 経済的な意味での「植民地」(特に一九世紀後半以降の)とは何か - 「暴力的」支配により破壊された部分は一般に思われているより、遥かに少ない
→ 寧ろ、重要なことは、この時期、産業革命によって圧倒的な生産力を有するようになった、先進国の生産物流入と、その生産力の結果としての巨大な購買力による、植民地市場介入が、植民地経済を大きく変えて行くこととなったこと
(今日の途上国の「飢餓」との類似性)
問題は、
 植民地においては、このような冷酷な「資本主義」の力が、植民地の一部の人々に極めて過酷に作用する段階においても、彼等を守る政治的障壁(国家)が存在せず、そのような人々が自らの不満をぶつけるべき手段をも有しないこと - ナショナリズムのもう一つの役割
逆に言えば、
 だからこそ、植民地の人々は、そこにおける客観的なGDP成長にも拘らず、「他人(の国家)」が自分たちを、「不当に」苦しめている、と考える → マクロで見れば、貧困は解消しつつあるのにかえって、それへの不満は大きくなる

日本植民地期の経済状態

成長率(域内総支出) 本土 台湾 朝鮮
1914~18 4.83 3.66 7.07
1919~23 -0.47 2.20 -0.18
1924~28 2.73 3.50 1.13
1929~33 1.68 -1.38 1.31
1934~38 3.65 4.35 5.03
労働者賃金(現地人/本土人) 台湾 朝鮮
1920 180.91/336.87 228.6/327.7
1935 103.82/187.11 153.6/259.7
官僚賃金(現地人/総平均) 朝鮮
1920 500.79/821.44
1935 530.41/837.93
官僚雇用数(現地人/総数) 朝鮮
1913 17282/40642
1920 16821/42912
1935 33007/87660
エンゲル係数 台湾 朝鮮
1920 72.02 61.11
1930 69.71 57.42
1935 68.18 54.73
域内支出構成(1次/2次/3次) 本土 台湾 朝鮮
1903~12 36.63/18.95/44.42 46.40/26.65/28.00
1913~22 30.61/25.18/44.21 36.81/33.04/30.15 68.05/6.5/25.45
1922~32 23.09/23.84/53.07 38.87/27.73/33.40 56.51/8.93/34.56
1928~37 18.09/28.09/53.01 37.14/27.37/35.22 50.22/13.30/36.48

溝口敏行他編著『旧日本植民地経済統計』東洋経済、より。

米価の推移

 

摂津米(大阪)

朝鮮米(大阪)

台湾米(神戸)

蘭貢精米(神戸)

1911

17.47

13.18

12.84

5.89

1915

12.90

10.45

10.81

5.24

1919

46.24

42.20

37.75

13.06

1923

32.92

29.33

18.19

7.76

1927

36.96

31.62

20.20

8.50

 

円/石

円/石

円/石

円/石









大道弘雄『日本経済統計総観』朝日新聞社、1930年、1162ページ以下より筆者作成。「蘭貢精米」とはビルマ産米のこと。( )内は市場の場所を示す。1918年に米騒動があり米価が急騰していることに注意。

朝鮮半島における人口一人当たり穀物消費量

 

大麦・裸麦

豆類

その他

合計

1915~18

0.7027

0.4128

0.2843

0.2615

0.3099

1.9712

1921~24

0.6388

0.4155

0.3608

0.2599

0.3461

2.0211

1926~29

0.5109

0.3952

0.3665

0.2315

0.3122

1.8163

1931~34

0.4401

0.4160

0.3146

0.2057

0.2723

1.6487

 








・河合和男『朝鮮における産米増殖計画』、170ページより。

日本植民地期における米生産高と輸移出量

 

生産高

輸移出量

朝鮮半島内消費量

1915~17

13488996

2005399

11483597

1920~22

14740332

2952285

11788047

1925~27

15790898

5671076

10119822

1930~32

17133167

7246857

9886310

 








註・河合和男『朝鮮における産米増殖計画』未来社、1986年、134ページより。

加えて、植民地支配に伴う、「豊かな人々」としての、宗主国人の登場
その意味 1)「比較の対象」 - 自らの貧しさが「実感」される Cf.今日の北朝鮮
       2)自らの貧困の正当化の容易化 - 「自分たちが貧しいのは、彼等により、富が奪われているからだ」
(現実には、多くの植民地において、貧困は、欧州や日本においてそうであったように、一般的に存在する)
Cf.従属理論 - 途上国の人々が貧しいのは、先進国が搾取しているからだ
→ 図式としては説得力があるが、歴史的論理としては説得力がない
(経済的には「豊かに」なっている - 実質的或いは主観的な「豊かさ」は別物)
いずれにせよ、
 以上のような植民地支配の結果として、多くの新興独立諸国は、独立すると直ちに「保護貿易」に乗りだす
Cf.ここにおける「今日の観点からの問い」
 50~60年代における「保護貿易」の失敗と、NIESによる「開放的経済体制」の成功
→ 植民地支配における「経済政策」は正しかったのか?? - Yes (経済的) and No (政治的)
→ これは究極的には、「政治の目的は、『長期的な豊かさの達成』のみにあるのか」?という問題である
さて、これと同様のことが、台湾においても行われる
 総督府の潅漑排泄施設を中心とする農地改良 - 米作・甘薯作双方に行われる → これによる「糖米相克」 → 両者の相克により一層単位あたり収穫量増加
また、これらの結果としての、台湾における特殊性としての、「糖業」の発達 → 「工業」的発展の先行
では、
 これらの民族運動から日本の巻き返しに至るまでの経過は、朝鮮人・台湾人に如何なる影響を与えたか
A.朝鮮
 延べ100万人以上の規模で展開された三一運動 - しかし、この運動も朝鮮半島内においてはすぐに「鎮圧」される
→ 運動は、1)海外亡命勢力による運動(大韓民国臨時政府、李承晩)、2)朝鮮内における「民族改造」運動、に分裂
しかしながら、
1)は、海外諸列強の非協力と、満州地域における軍事作戦の早々の失敗で挫折( → 臨政の分裂)
2)は、運動における「民族」性を徐々に失って行くことに(朝鮮社会の「近代化」という面で総督府と協力できる - 合法的運動の限界)
→ 1920年代末には運動は一時壊滅状態に

B.台湾
 「請願」運動の挫折 - 「請願」の限界(内地政治家の非協力) → 運動の分裂

ここにおける、新たなる要素の登場
①共産主義的運動の台頭 - ロシア革命の余波
→ 民族運動への「共産主義イデオロギー」の流入は、結果として、運動を分裂させ、更には脅威を憶える資産家層を脱落させる(林献堂・金性洙)
②資産家層の日本統治への取り組み
就中、1919年以後に訪れた戦後恐慌
 一時的にせよ、内地だけでなく、朝鮮・台湾の資産家の資金繰りをも苦しくする - ここにおける(低利の)総督府資金
背景としての構造
 経済開発のための内地からの資金流入 → この機関としての債権銀行(朝鮮殖産銀行等) → これらを利用した低利金融の利用 → 日本人・日本社会との交流・依存 → 運動家らの脱落・穏健化
Cf.「運動」を見る視点 - 「生活の全てを犠牲にして運動に没頭できる」人は、経済的にも精神的にも、何時の時代でも少数に留まる
→ 「運動」が真に成功するためには、単なる「お題目」だけではなく、「生活者」である個々人を共感させる論理と、一定の「利」と、「余裕」がなければならない
Cf.金性洙一族 - 3.1運動の背後組織形成に盡力
→ しかし、1920年代における実業(京城紡織、東亜日報、普成専門学校<高麗大学校の前身>等)への進出以降、朝鮮殖産銀行への依存を深める → 1930年代には南満紡績を中心として満州に進出、弟・金秊洙は満州国名誉総領事・中枢院参議、に

いずれにせよ、
 これらの結果、運動の「最前線」から脱落した資産家達は、総督府資金を利用しつつ、自らのビジネスを巨大化させるとともに、「緩やかな運動」を展開してゆくことに
同時に見落としてはならないのは、
 継続した、朝鮮・台湾人に対する「2流国民」扱い - 賃金、昇進等による顕著な内地人優遇
→ 内地人との「協同」が多くなればなるほど、心理的な軋轢は増加する事に 


第10講

補論 - その他の植民地

 朝鮮・台湾との違い - あ)当時、及び今日における政治的重要度の相違(例・「総督/長官」の地位)、い)雑多・多様な性格

1.南樺太
 ◎前史 - 千島樺太交換条約以前における「日露雑居の地」 
   1870.樺太開拓使(開拓使の北海道開拓使と樺太開拓使への分離)
   1871.北海道開拓使に合併、開拓使
   1872.開拓使樺太支庁 → 当地実績上がらず
   1875.黒田開拓使長官「樺太放棄の献議」(vs 外務卿・副島種臣「樺太買収論」)
       → 千島樺太交換条約にて、日本が全く権利を有していなかった千島列島(北千島)と交換で領有権放棄)
 領有の経緯 - 日露戦争後、ポーツマス講和条約による割譲
 統治の形態
  1905.7.陸軍、樺太全島占領 → 軍政(樺太軍司令官の下に、樺太民政署を設ける)
  1907.3.樺太庁設置(民政への以降)
 制度的特色
    樺太庁長官 - 内務大臣の指揮監督の下、法律命令を執行、行政事務を管理
 (郵便・電信、銀行・関税、度量衡・計算、等においては、各々、逓信大臣、大蔵大臣、商工大臣の監督を受ける)
    → 長官の地位は府県知事とほぼ同じ。但し、先述の各大臣の監督を受ける部分については、純然たる内務部の下にある府県知事のそれに加えた権限を有する
    → 1910.6.内務大臣の指揮監督から、内閣総理大臣の指揮監督へ → 1913.6.再び内務大臣へ → 1929.拓務省へ
    長官は、当初は樺太軍司令官が兼務できたが、1917.には不可に
 法令 - 「異法地域」
   「法律は原則として当然には樺太には行われない」 → 適用には「勅令」が必要
  但し、勅令を以て「独自に」特別の規定を設けることができるのは、
  1.「土人」に関すること、2.行政官庁または公署の職権に関すること、3.法律上の期間に関すること、4.裁判所に関すること
に限られる(長官が独自に法令を定めることはできない)
 ◎参政権
  1922.町村制施行(町村評議会設置)
  1929.町村自治開始
  1937.
市政開始(豊原)
 ◎徴兵制
  当初「特別地域」、1923.より順次実施

 ◎社会的特色
  住民構成 - 内地人口の圧倒的多数
   内地人(アイヌ包含) 386058 vs 朝鮮人 19768 vs 原住民(アイヌ除く) 425 vs その他 306(1940年)


2.南洋群島
 ◎前史
  1884.マーシャル諸島ラエ島での漂流日本人虐殺事件
  1889.「南島商会」設立交易開始(後の一つの発展の方向として、「南進」)

 ◎領有の経緯 - ヴェルサイユ講和条約にてドイツ放棄、国際連盟C式委任統治領として、受任国国土構成部分として統治
 ◎統治の形態
  1914.9.ヤルート島一時占領 → 軍政(樺太軍司令官の下に、樺太民政署を設ける)
  1914.10.ヤルート島正式占領、続いて南洋群島主要諸島占領
  1914.12.臨時南洋群島防備隊条例(軍政開始) - 司令官は天皇に直隷
  1918.7.民政部設置
  1922..南洋庁設置
 ◎制度的特色
  1922.当時、長官は内閣総理大臣の監督を受ける → 1929.拓務省 → 1942.大東亜省

 ◎法令 - 「憲法適用上領土と認められない土地」
  但し、明文の規定(例・「法律の全部又は一部をxxに施行するを要するものは勅令を以てこれを定む」)の欠如
    ∵ 南洋群島には当初から、帝国憲法法律の適用が予想されていない
    → そもそも、委任統治領は「領土」か? - 当時における複雑な論争
  その結果、南洋群島においては、法律事項は、命令によって規定される(原則として帝国議会の介入を受けない)
 ◎権利
  住民に日本臣民の権利は与えられず - 根拠・連盟規約22条
 ◎参政権
  なし
 ◎社会的特色
  
最小の植民地(623島、2149平方㎞)
  人口に比して大規模な移民社会の存在 - 日本人のほとんどはサイパン島居住←沖縄からの移住が大半
   1922年 内地人 3310 vs 現地人 47713 vs その他 63
   1931年. 内地人 22889 vs 現地人 50038 vs その他 100
  日本人移民による経済「発展」 - 製糖工場労働者に至るまで日本人(他植民地との違い)
 海軍基地 - 「日本の真珠湾」としてのトラック島

3.関東州+南満州鉄道附属地
 ◎領有の経緯 - 日露戦争後、ポーツマス講和条約により権利継承
 ◎統治の形態
  1904.~1905.日露戦争に伴う順次軍事占領( → 軍政)
  1905.関東洲民政署設置
  1905.関東総督府
  1906.関東都督府設置 - 関東州を管轄、南満州鉄道を監督し、鉄道線路を警備(在満軍隊統率)
  1919.関東庁、関東軍司令部設置
  1939.関東局 - 満鉄付属地の行政をも管理
  1937.南満州鉄道付属地行政権、満州国へ移譲
 ◎制度的特色
  関東都督は外務大臣の監督を受ける(在満軍隊統率においては、陸軍大臣の監督を受ける)
  →  南満州鉄道株式会社+関東庁(関東州行政+附属地警察権)+関東軍(鉄道守備兵から特殊権益保護軍へ)を統括
  都督は武官であることが必要であったが、長官は制度的には軍人でなくても可(朝鮮・台湾総督と同じ)
   - 実際には関東軍司令官と分離
  長官は、内閣総理大臣の監督を受ける
 ◎法令 - 「憲法適用上領土と認められない土地」
  ∴ 当然、憲法も法律もこれらの地域には効力を有さない(南洋群島と同じ)
   → 法律は勅令の形で行われる(天皇大権の自由な発動)
 ◎通貨・金融
  1913.横浜正金銀行への金券発効権 → 1917.在満特殊銀行(中央銀行)+朝鮮銀行(国庫及び発券)
 ◎社会的特色 - 内地人の急速な流入、人口の急増
  関東洲
         内地人 朝鮮人 中国人
  1905   5025        369726
  1930   116052 1794   820534
  満鉄付属地
         内地人 朝鮮人 中国人
  1906   3821         7675
  1930   99411  15900  235016
  また、日本植民地の中でも、最も急速な経済発展 - 中国市場との密接なつながり


第11講

第七章 総力戦体制と「大東亜共栄圏」

 所謂「15年戦争」 - 戦争の表現としては正確ではないが、満州事変以後の日本の東アジア「新秩序」構築への動きが、太平洋戦争へと繋がって行くことは明らか
それでは、何故に、日本は満洲へと進出したのか
1)朝鮮半島防衛 - 満州を他国に取られると、朝鮮半島の防衛が不可能になる
  (軍事的防衛+民族運動・共産主義運動波及)
2)「特殊権益」保護 - 関東州・南満州鉄道・満鉄附属地
背景・国民党政府による「北伐」の進行 - 中国ナショナリズムの脅威(それまでは奉天財閥との協力関係)
→ これに対する選択肢・A)国民党政府との協力、B)満州分離、C)国民党政府の改造
→ 以後、日本は、B)・C)の道を歩むことに
3)世界のブロック化 - 「文明の最終決戦に備えるための東アジア新秩序」石原莞爾
背景・A)国際条件、B)アジア主義者の「自らの思い通りに行かない中国/アジア」への失望
「中国人には近代国家を作る能力がない。従って、日本が指導するのが、彼等の幸せなのだ」
→ 中国「分割」統治への動き
4)国内的不満の「はけ口」 - 過剰人口論
しかし、
 同時に忘れてはならないのは、このような関東軍の一部や、国内の空気にも拘らず、必ずしも時の政府は、容易には、満州への介入には踏み切れなかったこと
→ 関東軍(の一部)の暴走による、満州事変 - 既成事実を作り上げ、国民の支持を獲得することにより、中央を説得する
→ このパターンは日中戦争勃発時の盧溝橋事件にも踏襲されることに
Cf.昭和初期の大恐慌に裏づけられた「閉塞感」 - 人々は関東軍や、所謂「青年将校」の行動に強い共感を有する
ここで重要なのは、
 1.「アジア主義」の行き詰まり - アジアとの「連帯」を訴える主張による、中国ナショナリズム否定
 2.「現状」の打破 - 日本はこれ以降、「新たなる現状」を作り上げるべく、奔走することを余儀なくされる
そして、
 満州国はこのような日本のアジア主義の矛盾と、作り上げんとする「新秩序」の問題点を如実に示す
背景としての、中華民国との「正統性」の競争
例・「執政」溥儀 - 全国民による「推戴」、議会の欠如
  「帝政」以降 - 民主主義か王政か(王道主義の限界 - 大同思想)、国家の不平等・皇室の平等
  「民族協和」と民族間序列 - 「日本を指導者とするアジア」
  満洲協和会 - コーポラティズム型支配のひな形
→ これらの満州における「実験」の成果は、その後の日本における総動員体制へと繋がって行くことに
(革新官僚の人的連続性 「二キ三スケ」=星野直樹・東条英機・岸信介・松岡洋右・鮎川義介)
順に、
 大蔵省 → 総務庁長官、関東軍参謀長、商工省、満鉄総裁、満州重工業総裁
さて、
 これらのことからも解るように、「満州国」は、中国ナショナリズム、更には、中国という枠組みそのものに対する、挑戦であった
言い換えるなら、
 これはアジア主義が、ナショナリズムを放棄し、何らかの「普遍主義」へと衣更えしようとしていることを意味する
確認
 アジア主義の三つの要素 
1)欧米ではなくアジアとの連帯、2)日本によるアジア扶助、3)アジアにおける日本のイニシアティブ
ここでの最大の問題は、
 アジアが日本の主導を拒否した場合、どのように対処するか → 「アジア主義」の押し付け
→ 当然のことながら、これはその後の日本の対中政策にも受け継がれる
背景・それまでの中国の軍閥≒地方政府乱立、国民党政府における「民主主義」欠如
具体的には、
 1933年 関東軍、長城線越境、河北省進入 - 「満州国国境の中国軍を駆逐するため」
 1934年 「多田(華北駐屯軍司令官)声明」 - 華北「独立運動」(抗日分子一掃、華北経済圏独立、華北五省軍事協力・赤化防止)
 1934.11.冀東防共自治委員会(殷汝耕) - 「民衆の請求に従って自治政府を組織して、中央から離脱する」
→ 国民党内親日派の勢力失墜・西安事件による国共合作
この結果としての、
 1937.盧溝橋事件
 1938.「国民党を相手とせず」(近衛文麿) Cf.「先手論」
「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」
さて、この新興政権としては、
 1937.12.中華民国臨時政府(北平・王克敏)、1937.11.蒙彊連合委員会(←蒙古連盟・察南自治政府・晋北自治政府)、1938.3.中華民国維新政府(南京・梁鴻志)
これらの何れにおいても「顧問政治」が展開される - 満州国の日本人官吏の役割を顧問が行なう
しかし、これらの「政府」は現実問題として、ほとんど正統性を獲得せず - 本来的な正統性の欠如+日本人の実質支配
この為の二つの打開策
 1)漢口攻略作戦 - 国民党政府の軍事的打倒
 2)汪兆銘擁立 - 国民党No.2引き抜きによる「臨時・維新政権合一」 → 「中央政権」樹立(南京還都)
背景・汪兆銘の内戦激化、焦土戦術による中国共産党勢力伸長への危惧
が、結局は、この工作も実質を持たず
→ 「落とし所」の消滅 Cf.日中戦争の膠着化 - 重慶作戦の軍事的不可(主として平坦線の問題)


第12講

さて、
 このような戦局の進展は、「植民地」の政策にどのような影響を与えたか
→ 「総動員体制」の成立 - 徴用(「強制連行」)等の条件の出現(代用労働力としての利用)
ここにおいて最大の焦点となったものとして、
 「徴兵」 - 国力を最大限に利用するために、植民地人を「兵士」として利用する 
  ○ 陸軍特別志願兵令:1938年4月、朝鮮、1942年4月、台湾
  ○ 海軍特別志願兵令:1943年8月、朝鮮・台湾
  ○ 徴兵制:1944年、朝鮮(陸軍186,980名、海軍22,290名)、1944年、台湾(22,000人)
参考:朝鮮
1938年 募集人数406  志願者数2946
1939年 募集人数613  志願者数12528
1940年 募集人数3060 志願者数84443
1941年 募集人数3208 志願者数144743
1942年 募集人数4077 志願者数254273
1943年 募集人数6300 志願者数303294

 これと類似したものとしての、「徴用」

Cf.これらの方法自身は、他の植民地と比べてとりわけ特異なものではない

→ しかし、これを厳密に実施する為には、様々な方策が必要
1)「住民登録制度」の完成 - それまでの戸籍制度と住民登録制度の乖離した状態から、内地と同様の「完全な」住民登録制度へ(寄留令)
2)皇民化教育の強化 - 朝鮮語教育の廃止、神社参拝の強制等々
3)「日本化政策」の強化 - 象徴としての「創氏改名」、朝鮮語新聞廃止、国威発揚運動
4)参政権付与 - 衆議院議員選挙権付与への模索 Cf.大政翼賛会による議会の機能停止
これらは何れも、
 「総動員体制」による植民地人の「人的需用」が、これまで「同化政策」と「植民地支配」の間で曖昧であった日本の植民地支配のあり方を、「植民地人を日本人に同化させ、日本人の一部として取り込む」方向に純化させていったことを示す
ここで忘れてはならないのは、
 これは植民地人にとっては、「自己の民族意識否定」「日本文化の押し付け」と取られたこと → 「徴用」による苦難の経験ともあいまって、今日の日本植民地イメージの大きな部分を形作る

いわゆる「強制連行」について
 以上のような植民地における総力戦への動員 - 三つの形式(募集1939~、官斡旋1942~、徴用1944~)
→ 合計72万人以上も人々が朝鮮半島外へ、更には、350万人以上も人々が朝鮮半島内で戦争へと動員された
違法性の議論
 1)植民地支配そのものが違法である - 全ての動員が違法
 2)植民地支配そのものは合法である - 動員そのものは日本人に対するものと同じ方法で行われれば、合法
  A.動員過程における違法行為
  B.動員先における違法行為(「強制労働」)
問題は、結局、
 植民地における「他人の戦争への動員」をどう考えるか、ということ

データ 「総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察―人的動員を中心にして―」より
 (http://www.jkcf.or.jp/history/report3.html
編『強制連行された朝鮮人の証言』(明石書店、一九九〇年)より作成。

表1 第一次世界大戦における「帝国」からの動員数

イギリス

カナダ

630,000

 

オーストラリア

412,000

 

南アフリカ

136,000

 

ニュージーランド

130,000

 

インド

800,000

メソポタニア戦線のみ

アフリカ諸植民地

50,000

 

(中国)

200,000300,000

(労働者として)

 

フランス

「帝国」全体

600,000

200,000

兵士

労働者

Charles Townshend ed. The Oxford history of modern war, Oxford : Oxford University Press, 2000, p.135より作成。

表2 第二次大戦におけるイギリスの兵力動員

イギリス

5896000

カナダ

724023

オーストラリア

938277

ニュージーランド

205000

南アフリカ

200000

インド

2500000

東アフリカ

228000

キプロス

9000

西アフリカ

146000

パレスチナ・トランスヨルダン

25000

カリブ植民地・バーミューダ

10000

セイロン

26000

マルタ

8200

フィジー

7000

木畑洋一『支配の代償 : 英帝国の崩壊と「帝国意識」』(東京大学出版会、一九八七年)八五頁より作成。

表3 朝鮮半島からの労務動員(動員形式別:1942年~1944年)

動員先

動員形式

1942

1943

1944

朝鮮

官斡旋

49,030

9.4

58,924

6.7

76,617

2.6

 

徴用

90

0.0

648

0.1

19,655

0.7

 

軍要員

1,633

0.3

1,328

0.2

112,020

3.8

 

道内動員

333,976

64.1

685,733

77.7

2,454,724

82.9

 

小計

384,729

73.8

746,633

84.6

2,663,016

90.0

日本

官斡旋

115,815

22.2

125,955

14.3

85,243

2.9

 

徴用

3,871

0.7

2,341

0.3

201,189

6.8

 

軍要員

300

0.1

2,350

0.3

3,000

0.1

 

小計

119,986

23.0

130,646

14.8

289,432

9.8

その他

軍要員

16,367

3.1

5,648

0.6

7,796

0.3

 

徴用

135

0.0

 

 

 

 

 

小計

16,502

3.2

5,648

0.6

7,796

0.3

小計

官斡旋

164,845

31.6

184,879

20.9

161,860

5.5

 

徴用

4,096

0.8

2,989

0.3

220,844

7.5

 

軍要員

18,300

3.5

9,326

1.1

122,816

4.1

 

道内動員

333,976

64.1

685,733

77.7

2,454,724

82.9

合計

 

521,217

100.0

882,927

100.0

2,960,244

100.0

『朝鮮における日本人の活動に関する調査』(湖北社、一九七七年)七一~七二頁所収の各表より作成。明らかな計算間違い等は適宜訂正した。

表4 朝鮮半島外への労務動員(行先別)

年度

当初計画数

石炭山

金属山

土建

工場他

合計

1939

85,000

34,659

5,787

12,674

-

53,120

1940

97,300

38,176

9,081

9,249

2,892

59,398

1941

100,000

39,819

9,416

10,965

6,898

67,098

1942

130,000

77,993

7,632

18,929

15,167

119,721

1943

155,000

68,317

13,763

31,615

14,601

128,296

1944

290,000

82,859

21,442

24,376

157,755

286,432

1945

50,000

797

229

836

8,760

10,622

 

907,300

342,620

67,350

108,644

206,073

724,687

『朝鮮における日本人の活動に関する調査』(湖北社、一九七七年)六八頁所収の表より作成。明らかな計算間違い等は適宜訂正した。

表5 道内動員の内訳(動員形式別)

 

1944

道内官斡旋

492,131

勤報隊

1,925,272

募集

37,321

合計

2,454,724

『朝鮮における日本人の活動に関する調査』(湖北社、一九七七年)七二頁本文より作成。

表6 朝鮮半島からの兵力動員

 

陸軍特別志願兵

海軍特別志願兵

学徒志願兵

小計

 

徴兵

 

 

 

志願者数

訓練所入所者数

志願者数

訓練所入所者数

学徒志願者

採用入隊数

志願者

採用数

陸軍

海軍

動員総数

1938

2946

406

 

 

 

 

2946

406

 

 

406

1939

12528

613

 

 

 

 

12528

613

 

 

613

1940

84443

3060

 

 

 

 

84443

3060

 

 

3060

1941

144743

3208

 

 

 

 

144743

3208

 

 

3208

1942

254273

4077

 

 

 

 

254273

4077

 

 

4077

1943

303294

6300

-

1000

3366

3117

306660

10417

 

 

11193

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1944

 

 

90,000

2000

 

 

90000

2000

55,000

10,000

67000

1945

 

 

 

 

 

 

-

-

55,000

10,000

65000

戦後補償問題研究会編『戦後補償問題資料集 第四集』(戦後補償問題研究会、一九九一年)八頁以下の各表から作成。但し、1944年以後の数字は予定数であり、実際に動員された数とは異なっていることに注意。

表7 主要交戦国の生産年齢人口に対する動員率(1944年末)

 

軍動員

労力動員

合計

日本

11

71

82

ドイツ

31

53

84

ソ連

24

61

85

イギリス

19

66

85

アメリカ

15

60

75

 

%

%

%

大江志乃夫編・解説『支那事変大東亜戦争間動員概史』(不二出版、一九八八年)三二〇頁。

表8 主要交戦国の産業別労力動員配分

 

軍需産業

民需産業

農業

日本

39

21

40

アメリカ

35

48

17

ソ連

35

32

23

 

%

%

%

大江志乃夫編・解説『支那事変大東亜戦争間動員概史』(不二出版、一九八八年)三二一頁より作成。ソ連の数値が合わないが原資料の通り記載した。

表9 朝鮮人強制連行真相調査団編『強制連行された朝鮮人の証言』(明石書店、一九九〇年)掲載の「証言」

1.「強制連行」

番号

渡日年月

年齢

渡日経緯

労務先

(都道府県)

労務先

(種類)

1943/4

14

拉致

長崎

炭鉱

1943/11

22

徴用

福岡

炭鉱

1942/2

17

拉致

福岡

炭鉱

徴用

福岡

炭鉱

1942/1

19

徴用

(兄の身代り)

兵庫

工場

1939

20

募集

宮崎

土建

1944/1

24

徴用

東京

工場

1943

17

徴用

長野

土建

1930

20

自主渡航

長野

土建

10

1942/11

徴用

秋田

鉱山

11

1943/9

徴用

京都

鉱山

12

1943

21

募集

北千島

土建

13

1939

18

拉致

北海道

鉱山

2.「強制労働」

番号

渡日年月

年齢

渡日経緯

徴用等年月

労務先

(都道府県)

労務先

(種類)

14

1932以前

19

自主渡航

 

 

15

1932以前

16

自主渡航

1944

大阪

荷役

16

1939/4

22

自主渡航

1942/10

鳥取

土建

17

1938/2

自主渡航

 

 

17

1939以前

 

 

18

1918

自主渡航

 

 

19

1944

(学徒動員)

奈良

土建

20

自主渡航

 

 

 

21

1934

16

自主渡航

 

 

 

22

1926

13

自主渡航

1942

埼玉

工場

朝鮮人強制連行真相調査団 編『強制連行された朝鮮人の証言』(明石書店、一九九〇年)より作成。

まとめるなら、
 この時代の日本の政策に共通しているのは、日本人における「日本」意識(使命感等々)の極端な肥大化と、それに基礎を置く、植民地・アジア周辺国ナショナリズムの否定
→ これを象徴するのが、イデオロギーとしての「八紘一宇」(世界を一つの家にする)
しかし、
 中国のそれに典型的に現れたように、近代的イデオロギーとして大きな力を有するナショナリズムの前では、この論理は余りにも空虚であった
(何よりも、それが日本ナショナリズムに基礎を置きながら、他のナショナリズムを否定することに、根本的な無理があった)
そして、
 これが最も極端に表われたものとしての、「大東亜共栄圏」の下での、各地域軍政(フィリピン・マライ・スマトラ・ジャワ・ビルマ)
「日本が大東亜戦争を完遂する一つの理由は、東亜民族の解放に主眼があるのであるが、それは現在南方に居住する民族の自力では到底達成しえないところであり、日本が戦い勝ってはじめて実現するのであるから、先ず日本が勝ち得るだけの力を涵養する体制を築き上げるために、今後日本を養い強化するため実行する政策は、、南方民族にとっても、当然の願望でなければならぬ」
→ これを人々に納得させるための「日本」教育
このような日本の方針、特に「戦争遂行優先のための民族運動抑圧」は、
 結果として、当初は日本に好意的であった人々をも、日本統治から離反させることに


第13講

第八章 総括 - 大日本帝国の終焉と東アジアの脱植民地化

大日本帝国の崩壊
 その最大の特徴としての、日本の「自失」による崩壊 - 中国を除き、その解放は、植民地或いはそれに準ずる地域住民の抵抗運動によってではなく、主として、日本の太平洋戦争による、アメリカに対する敗北の結果として齎された
これが有した意味
 1.旧植民地における「独立」へ向けた準備の不足 - 特に重要なものとしての、独立後の「政治的中心」の欠如
例・韓国 - 李承晩政権に至るまでの権力闘争
  台湾 - 国民党と台湾在地勢力の葛藤としての、二二八事件
同様のことは、中国についても言うことができる
 国共内戦と国民党政権の崩壊 - 「戦勝」を自らの体制を固めるための材料とできず
(「勝利せず、積極的にも戦わなかった、国民党軍」、のイメージ)
 2.ナショナリズムにおける「傷痕」の残存 - 特に韓国について
例・旧朝鮮総督府を巡る韓国の議論←→インドや満州との比較
 また、台湾における、「台湾人は敵か味方か」論争
- 「勝利者」/「支配者」として現れた国民党軍
 3.「大日本帝国分割」の結果としての、冷戦の最前線化 - 中国と朝鮮(二つの分断国家)

さて、
 では我々はこのような日本植民地支配をどのように総括すれば良いか(以下はその一例)
理論的側面(1) - 大きな「近代化」の流れの中で
 1)植民地支配とナショナリズム
 2)植民地支配と民主主義
理論的側面(2) - 政治というメカニズムの中で
 1)イデオロギー(言説)と現実の関係
 2)主観と客観のズレ、そしてその政治的効果
 3)歴史的現実に対する多元的な視点
 4)「過去」による「現在」への制約と、「現在」による「過去」への意味づけ


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