講義用メモ(2013年1月16日更新)

注意・このメモは、木村が講義の必要上作成したものです。基本的に昨年の講義で使用したメモ段階のものですので、表現の不十分な部分、未整理な部分等、多々含まれておりますので、具体的な講義の内容等については、直接、Kan_Kimura@yahoo.com までお問い合わせください。また、無断での引用等は厳にお断りさせていただきます。

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関西学院 - 東アジアの政治B  「東アジアの脱植民地化とイデオロギー」

目次

第1講(2012/09/28)
第2講(2012/10/05)
第3講(2012/10/12)
第4講(2012/10/19)
第5講(2012/10/26)
第6講(2012/11/02)
第7講(2012/11/16)
第8講(2012/11/30)
第9講(2012/12/07)
第10講(2012/12/14)
第11講(2012/12/20)
第12講(2013/01/11)


第1講(2012/09/28)

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はじめに

1.講師の自己紹介 - 氏名・非常勤であること・専攻(韓国)

2.講義をはじめるに当たっての注意
1)単位 - 基本的に学期末試験による
2)出席 - 強制せず
3)テキスト - なし、参考文献は講義中に適宜指摘

2.本講義の目的

1)第二次世界大戦後の北東アジア(中国・韓国・台湾・北朝鮮)の政治史を分析することにより、今日まで何故この地域が依然として問題を抱えていのかを明らかにする
2)現実の北東アジア諸国の政治過程を通じて、政治学の分析枠組みについて理解を深める

序章 戦後東アジアを見る視点

 今日の東アジアのイメージ - 経済発展、「xx脅威論」、「韓流」、「拉致」、「ショッピング」、「エスニック料理」...
しかし、このような東アジアのイメージは、戦後大きく変化してきた
 1980年代 - (経済発展)、民族運動、民主化運動、
 1970年代 - 中ソ対立、独裁政権
 1960年代 - 冷戦、文化大革命(社会主義への期待)、貧困
 1950年代 - 「熱い」戦争
→ これらの日本における東アジアのイメージ変化そのものが、この地域がこの50年間に如何に激しく変化しているかを示している

だが、同時に忘れてはならないのは、
 欧州 - 「冷戦」以後の時代における激変 → 単に「冷戦」が終了しただけではなく、欧州統合や東欧の民族紛争、更にはソ連崩壊等により、国境線までもが大きく変化
→ これに比べて、東アジアにおいては、
 1)「冷戦的構造」の現存 - 南北朝鮮、中台対立
 2)国際関係の基本的枠組みの不変 - 日米中ソ(露)四強国とその間に存在する南北朝鮮
 3)依然、繰り返される「過去」に対する議論 - 日本植民地支配、朝鮮戦争、国共対立、二二八事件

これらのことが意味しているのは、
 第二次大戦後の東アジアの国際的枠組は、基本的に1945年から5年ほどの間に作られたものであり、東アジア各国の戦後はその枠組みを基に成し遂げられたこと
→ それではそのような枠組み、とは何か

ここで重要なものとしての、
 戦後の東アジア世界の枠組みが、そもそも広義の意味での「大日本帝国の崩壊」により作り上げられたこと
→ 我々はそれが何であったかをもう一度考え直す必要がある

第1章 「与えられた」解放とその代償

第1章 「大日本帝国」の崩壊と分割

 第2次大戦前の東アジア - 日露戦争により確定し、第一次大戦後に国際的にも本格的に承認された日本の「地域的」覇権
EX.朝鮮独立運動の国際的孤立、西太平洋における圧倒的制海権(シンガポールからハワイまで)
   軍閥(張作霖等)を通じた華北支配、桂・タフト協定、石井・ランシング協定
CF.国際連盟「常任理事国」としての日本
 a)国際連盟が「白人クラブ」でないことの便宜的「証明」のための「追加された大国」、であると同時に、
 b)東アジアという地域を事実上支配する「地域大国」として、四大国(+3=アメリカ、ソ連、ドイツ、-1=イタリア)の地位を占める

これが1930年代に入って、
 主として中国ナショナリズムにより揺らぎはじめる - 奉天軍閥の敗退
→ 「覇権」の再構成の試みとしての、「満州国」による「覇権の制度化」と「ナショナリズム対抗イデオロギー」の提示
→ この失敗を埋めるための「国際秩序そのものの改造」(大東亜共栄圏)

この意味において、
 太平洋戦争は、「地域大国」であった日本がその同様の中から、「世界大国」へと飛躍しようとした試みであったと言うことができる
(この点については、前期の講義における、「日米決戦論」や、日独勢力分割構想等を参照)
→ その挫折としての敗戦

結果としての、
 1)日本における地域的「覇権」の消滅 → 日本は「勢力圏」を有しないただの「大国」に(影響力の急落)
 2)大日本帝国の「四分割」 - 軍事占領の意味
  a.「本土」に押し込められた日本
  b.満洲・朝鮮半島北半・南樺太・千島列島を獲得したソ連
   CF.ソ連による遼東半島租借
  c.朝鮮半島南半、南洋諸島・沖縄・奄美諸島・小笠原諸島を獲得したアメリカ
  d.華北を「回復」し、台湾を「獲得」した中国
 3)米ソ「中」三大国による勢力圏分割
  a.日本本土を含む「海洋」と南朝鮮を獲得したアメリカ
  b.満洲を中心とする「大陸」を基盤とするソ連
  c.米ソから「中立的」で「動向不明」な「大国」中国 (中華民国)- 「ライオンの分け前」を与えられた「張子の虎」

CF.日米関係 - 敗者と勝者の関係としてはじまる → 東京裁判、靖国神社等へ

ここにおける「あるべき」基本構造 - 3つの焦点
 1)「アメリカ勢力圏」の突出部・南朝鮮を巡る対立 - 守るべきか引くべきか
  CF.朝鮮半島に対する米ソ両国の当初の「消極的」姿勢 - 極めて安易に決められた38度線
 2)「返還されるべき中国」・満洲を巡る対立 - 当然生じるべき中ソ間の巨大な火種
 3)「弱体な大国」中国の動向 - 中立か、アメリカ圏か、ソ連圏か
このことは、
 その後の東アジアの対立構造が、「不自然な大日本帝国分割」を埋める形で展開してゆくことを意味している

また、同時に、40年近く続いた日本の覇権
→ これは1945年までに、政治的・軍事的にだけでなく、経済的・社会的にも「日本の覇権」に見合った「構造」を作り出す
 CF.朝鮮・台湾・満洲 - 完全に「日本資本主義」の一部を占めるものとなる(単独では維持不可能な経済構造)
  例・膨大な米輸出 - しかし、これは本土等からの膨大な肥料移入なしには維持できない
    植民地における工業 - 生産設備や中間財を一方的に本土に依存 → これが止まると操業停止も
    エネルギー - 北朝鮮の電力、満洲の石炭
    市場の欠如 - 世界市場よりも高値で取引した「大日本帝国内の『保護』貿易」
    金融市場 - 日本からの資本移出 → 解放以後の経営資金の極端な不足
従って、
 暫くの間の東アジアにおいては、単に大日本帝国を「如何に」分割するか、だけでなく、「分割」された各部分が「正常」に動けるようにする「新たなる構造」を作り出す必要が生じることとなる

加えて、
 このような「大日本帝国」の崩壊 - それがアメリカ(+ソ連)の軍事力により齎されたことは、誰の目にも明らか
→ このことは、本土を除く「分割された」地域の住民/政権にとっては、
 1)本来植民地(的なもの)からの独立戦争により得られる、権威や自信等を得ることができなかったこと、と同時に、
 2)旧植民地諸国としては異例なことに、旧宗主国/覇権国から完全なフリーハンドを獲得、したことを意味する(∵日本の無条件降伏)
→ この結果、生じる、
 a)政権の「権威」と「権力」の乖離、b)日本との間の「認識」のギャップ
  CF.「フランスもか!!」 - ドイツ降伏時のドイツ軍最高司令官の言葉

予想される具体的な展開

1.理論的整理 - 独立という名の革命

独立運動に対する
在地支配層の戦略

「勝ち取った」独立

「与えられた」独立

運動への参加
(「勝ち組」への加担)

一部の勝者/大多数の敗者
  「権威主義的」体制

旧宗主国による弾圧
  社会的基盤を持たない新興勢力による不安定な支配

宗主国への協力
(「負け組」への加担)

社会的威信失墜
  「革命的」体制

社会的威信維持
  寡頭「民主主義的」体制

沈黙
(選択の放棄)

社会的威信失墜
  「革命的」体制

不安定な社会的地位
  中核勢力なき不安定な支配

2.「大日本帝国」の敗北と「与えられた」解放

 独立の準備の不足 - リーダーと政治的組織と政治的権威
 強大な植民地国家 - 国家を掌握する者と掌握しない者の間の格差
 
中国 - 膨大な「未修復地域」の存在
韓国、台湾 - 終戦直前まで崩壊しなかった日本支配

3.在地社会の崩壊

政治学的な理論的想定 - 論理的に(あるべき)状態
 国家 vs 社会
 ○ 国家が圧倒的に優位 - 国家主導の「権威主義的」体制
 ○ 社会が圧倒的に優位 - 国家が社会に「食い物」にされる体制(特に社会において圧倒的な力を持つ勢力がある場合には)、或いは団体(団体の有力者)の支配
CF.中間団体論
 強大な近代国家に対して個々人が単独で対抗することは困難 → これを支援してくれる「団体」が必要
 ディレンマ - 「団体」の中の資源や力の不均等配分(「団体」における民主主義の不十分)

ここにおいて、
 「与えられた独立」 - 在地社会の有力者の多くが、「親日派」批判に晒される → 権威の失墜 → 中核的存在を失った社会の弛緩 → 国家の強力な浸透

4.国際社会でのあり方と政策の動揺
 苛烈な独立闘争による独立 - 運動の中での「敵の敵」との連携 (例・ベトナム、アルジェリア - 米仏の敵としてのソ連との連携)
 交渉による独立闘争による独立 - 旧宗主国との関係と、国際的中立の選択(例・インド)
これに対して、
 東アジア諸国 - 「与えられた独立」と「冷戦以前」の運動
→ 独立してから、国際的路線を決める → その為の内戦と混乱( → それによる在地勢力の一層の権力失墜)



第2講(2012/10/05)

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第2章 中国内戦と「戦後計画」の崩壊

まとめ
 第二次大戦後の東アジア - 「大日本帝国」の分割から始まる
→ 地理的な配分の歪さゆえの「三つの火薬庫」 - 満洲・南朝鮮・台湾(「分割」が残した問題) + 不安定な「大国」中国
この状況の欧州との比較
 1)両勢力の突出部 - 英勢力圏としてのギリシャ、中立地点としてのポーランド・フィンランド
 2)弱体な「大国」  - イギリスの衰退
しかし、欧州においては、
 1)ギリシャの死守+ポーランドのソ連圏化+フィンランドの「フィンランド化」により、突出部の問題は火を噴かず(主として軍事的理由による)
 2)英勢力圏のアメリカによる承継 - 1950年代末まで続く
→ 結果としての、「安定」(冷戦の「冷却化」) → 1945年の枠組みが1990年まで持続
これに対して、
 東アジアでは、1945年の枠組みは、そのまま維持されることなく、大きく変容することとなる
ここで重要となるのが、
 1945年における中国の位置 - 戦前に占めた「日本」の地位の代替 EX.国際連盟/連合の「常任理事国」の交代
→ 日本ほどではないが、東アジアにおいて「無視できない力を有する大国」としての役割を期待される
背景
 中国の地位を巡る第二次大戦時の論争 - 「大国による世界管理(米英ソ+?)」に中国を含めるか否か
CF.「大国管理」と国際社会の寡頭支配 - 「計算可能性」を向上させる為の主要アクターの制限

参考文献・五百旗頭真『米国の日本占領政策』上下(中央公論社)
 アメリカ - ルーズベルトの「中国大国化」構想 - アメリカは常に中国に対して敵対的であった訳ではない(注意!)
1940年代の敵と、1950年代の敵
  中国の第二次大戦からの脱落懸念+「アジアの姉妹共和国(←→日本「帝国」)」に対するアメリカの期待+「潜在大国」+将来の市場+「人種戦争」配慮、を背景とする(欧州戦線において、英ソが果たした役割を中国に期待 - アメリカの軍事的負担の軽減)
  「中国(蒋介石)は何も有さないからこそ、その地位においてだけでも大国のそれを与えなければならない」
  → アメリカはこの方針から、中国に対して、
 1)不平等条約撤廃、2)差別的移民政策撤廃、3)中国ナショナリズムの領土要求承認( → 満洲・台湾+「租借地」)
CF.満洲でさえ、戦後これを中国が領有するか否か(ソ連に引き渡すか)はこの時点では連合国の間で明確ではなかった
これは、
 この時期のアメリカが、戦後の東アジア国際関係を、「米中枢軸」により構築しようとしていたことを意味する
このアメリカの姿勢は、
 明確であり、かえって中国をしてその物理的能力のなさからしり込みさせるほどであった
EX.アメリカから提案された「中国琉球(更には小笠原)領有案」、「天皇制廃止案」に対する蒋介石の消極( → ルーズベルトの「失望」と「挫折」)
因みに、他国は、
 中華民国 - 自らの物理的能力の欠如、将来の国共内戦に備えてのアメリカへの配慮、過度の弱体化による「日本共産化」への懸念
 イギリス - 英米が主導する戦後世界 「大英帝国から何ものをも奪うことはできない」チャーチル
 ソ連 - 欧州戦終了後の参戦による影響力確保(中華民国との関係模索 → 中ソ友好同盟条約 1945.8.14.へ)
この経緯
 1942.1.1. ワシントン会議(米英) - 連合国共同宣言にて 米英ソ中を別格扱いする
 1943.1.  カサブランカ会談(米英)
 1943.10. モスクワ外相会談(米英ソ) - 「四大国」(アメリカが中国を含ませる)
 1943.11. カイロ会談(米英中) - 「三大国」
なお、ここからアメリカは甞ての積極性を喪失
→ 東アジアでの「現実的パートナー」としてのソ連の浮上( → 冷戦進行による、最終的なパートナーとしての日本)
→ 1945.2.ヤルタ会談、1945.7.ポツダム会談 - 蒋介石は共に招かれず(形式だけの大国)
即ち、これらからいえることは、
 この時点で中国は自他共に認める実力不相応な「大国」の地位を与えられており、これが東アジアの最大の不安定要素となる
「誰がアメリカの、『パートナー』になるのか?!」
さて、1945年以後の中国情勢
CF.前提 - 日中戦争以前からの中国情勢
 辛亥革命 → 軍閥分立 → 国民党の再生と共産党の成立(当初関係良好) → 国民党軍による北伐 → 国共内戦の開始 → 満洲事変と第二次合作(「西安事件」) → 日中戦争

参考文献
 波田野善夫『国共内戦』(中央公論社)
ここにおける、
 1945.8.15. - 共産党指令・朱徳の命令にも拘わらず、国民党軍による順調な日本軍武装解除 ∵ ソ連の国民党政権支持
CF.日本軍の武装解除 - 膨大な規模の兵器が武装解除推進側に渡ることを意味する → 第二次大戦後の兵器余剰状況とあいまって、軍事的バランスを大きく変える
 EX.インドネシア、ベトナム - 何故、第二次大戦前には、全く列強に歯が立たなかった人々が、有効に戦いを展開できたか
 1945.8.~9. 重慶会談(蒋介石・毛沢東)
しかし、
 アメリカの積極的支援と、ソ連の消極的支援を期し、自らの圧倒的優勢を確信する蒋介石は、自らこの会談を破壊し、共産党の拠点を攻撃
→ 1946.12.両者は会談を放棄、全面戦争へ
ここにおいて、
 調停を行っていたアメリカも断念 - 国民党政府全面支援
→ この判断が、逆にソ連をして共産党支援へと導くことに(∵ 国民党親米化への警戒)
CF.蒋介石指導下、中華民国 - 日中戦争前期の最大の援助国はソ連、政治体制的には「訓政独裁」(国民党による独裁政権)
→ ソ連以前はドイツが最大の援助国
CF.第二次世界大戦期の「成功した政治体制」としての、ソ連、ドイツ(また、ニューディール期のアメリカ)
CF.冷戦初期における枠組みの不明確 - そもそもアジアの「共産主義国」は「共産主義」なのか?
→ マルクス主義本来の「史観」からの決定的逸脱 ∵ 資本主義の成熟の結果としての革命 - にも拘らず、極端に遅れた中国の近代化
さて、重要なのは、戦争の展開
 当初、国民党軍の圧倒的優勢
 1945.8.~10.    上党・邯鄲戦役 - 山西主導権
 1945.10.~1946.1. 綏遠戦役 - 内蒙古地区主導権
 1945.10.~1946.1. 徐州・済南戦役 - 山東主導権
更には、 
 1946.~1947.6. 山東・峡北、国民党掌握 
 1947.3.共産党拠点・延安陥落 「半年以内に戦争を終結させる」
しかし、このような華北における国民党軍の優勢に反して、
 満洲 - 唯一、共産党軍が優勢を保つ ∵ ソ連軍の消極的支持+北朝鮮及び満洲(?)における旧日本軍兵器の共産党軍への流入
→ 国民党軍は、内戦の総仕上げとして、また、共産党軍は決戦の場として、満洲を選ぶ
 1947.8. 国民党軍東北作戦開始 → 共産党軍の戦略的後退・「攻勢的防御」による、国民党軍主力壊滅
→ 1948.11.瀋陽陥落
以後、主力を失った国民党軍は敗走を続ける → 1948.4.延安失陥、1949.1.北京陥落、1949.5.上海陥落、1949.4.南京陥落、1949.6.福州陥落、1949.11.広州陥落、1949.12.重慶陥落
CF.渡江作戦 - 台湾の危機感の一因
結果、
 1949.10.中華人民共和国成 → 中華民国政府、台北へ
さて、ここで重要なのは、
 中華民国敗北の原因として、1)中華民国政府への支持の欠如 -腐敗+対日不戦+共産党への期待(土地分配)、に加えて、戦争の転換点としての、2)満洲の重要性
注目すべきは、
 満洲が「大日本帝国の分割」以前においては、日本の大陸進出の最大の拠点であり、国民党・共産党、共に拠点を有していなかったこと
しかし、1945年8月のソ連軍満洲占領
- 国民党と共産党を「対等」に扱うソ連(註・ソ連は、両者を共に中華民国の構成要素と看做している)の下、共産党が逸早く、満洲に拠点を作り上げる
CF.国民党支配地域 - アメリカ軍が国民党軍の進駐を移動等の面で支援する(既に中国大陸にいたアメリカ空軍+アメリカ海軍)
→ 満洲ではこの便益を国民党は受けられず
→ 国民党が進出した段階では、共産党は配備を完了し、外蒙古・北朝鮮から多量の軍事的支援(膨大な旧日本軍兵器)を受けられる状態
この結果、
 「ソ連の支援する共産党の主導の下の中国統一」の完成 - 満洲及びそれに付随する諸権益は、中華人民共和国に「返還」される
ここにおけるソ連の判断
 満洲権益確保+新生中国のソ連圏離脱<満洲権益放棄+新生中国のソ連圏組み込み
しかしながら、
 この中華人民共和国による中国統一は、これだけでは依然、未解決な問題を多く残す
1)新生中国の位置付け - 「ソ連の衛星国」か「相対的に自立的な社会主義国」か
 CF.アメリカの戦後構想における中国 - 友好的な「姉妹共和国」
   これは「アメリカの衛星国」であることを意味しない EX.共産党の存在容認、ソ連と中華民国の友好関係(軍事同盟)
→ 即ち、新生中国にも、ソ連との関係を第一にしつつも、アメリカとの友好関係をも保持する、というオプションが(理論的には)あり得る
実際、
 新中国成立当初、米中の間にはそのような動きあり - しかし、この機会は失われてしまう ∵ 朝鮮戦争

第3章 朝鮮半島「分断」と「国家建設」

参考文献

大沼久夫『朝鮮分断の歴史』(新幹社)
尹景徹『分断後の韓国政治』(木鐸社)
ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』(1)(2)(影書房)

 1945年の朝鮮半島 - 日本本土以上に第二次大戦の影響を受けなかった朝鮮半島(終戦間際の朝鮮半島北半部を除く)
このことが有した意味
1)支配者・被支配者双方における「解放」への、物理的・精神的準備の不足
(a)日本側 - 朝鮮半島「解放」への「納得」の欠如 → 戦前の理解がそのまま受け継がれる
EX.「日本の植民地支配は半島人も歓迎している、日本は朝鮮半島を搾取していない、日本は発展に貢献した」等の今日にも依然残る見解(これらは戦前の公式見解)
 → 日本人は「違った見方がある」ことを学ぶ機会を失うと同時に、
それを(過去の世代の問題としてではなく)「自分の問題」としてこれに答えるべく考える機会を失う
→ この意味において、「安易な謝罪」(何に対して、何故謝罪しなければならないか、の認識を欠く)も、「安易な妄言」(何も考えていないし、知らないので、逆に再反論できない)も同じ問題をはらんでいる
(b)朝鮮/韓国側 - 独立へ向けての具体的準備の欠如
EX.政体は如何なるものであり、誰を指導者とし、どのような理念に基づいて国家を作るのか、また、そこから排除される者(親日派)は具体的に誰か
2)解放後の朝鮮/韓国社会における日本統治システム(それも総動員体制の為の)のほぼ完全な形での残存
EX.「国民学校」 - 90年代の半ばまでこの名称が受け継がれる、「東亜xx」という名称
これらは一言で言えば、
 朝鮮半島においては、その「戦後」のあり方を、日韓双方が考えおらず、それらを場当たり的にしか始められなかった、ということ
そして重要なことは、
 それは米ソもまた同じであった、ということ - 極めて安易に引かれた38度線
アメリカ - 「朝鮮半島の真中にあったから」  ソ連 - ソウルに突入出来たのに行わず
→ 双方が、朝鮮半島にほとんど何の関心もなかったことを意味する
さて、
 このような「支配する側」「支配される側」双方の準備不足の中での「解放」
38度線以北 - 1945.8.9.ソ連参戦(補助作戦としての朝鮮半島作戦) 、同日慶興攻撃 → 1945.8.12.清津上陸、8.16.元山上陸
→ 8.24.第25軍司令部平壌に - チャムスコフ司令官布告文
   8.27.平安南道人民政治委員会結成 - 建国準備委員会(後述)系勢力の合作
   9.20.「北朝鮮占領方針指令」 - 北朝鮮単独の「政府」樹立を規定(?)
   9.19.金日成元山上陸
  10.8.~10.五道人民委員会連合会議
  10.13.朝鮮共産党北朝鮮分局成立
  10.14.ソ連軍歓迎平壌市民大会 - 金日成大衆の前に登場(33歳)
  10.28.北朝鮮五道行政局(委員長・曺晩植)
  11.3.朝鮮民主党(党首・曺晩植)成立
  11.23.新義州事件(反ソ連軍学生デモ) - 死者23名?
しかし、この緊張を孕んだ状況は、1945年末に決着
 「反信託統治運動」の中での、曺晩植逮捕(1946.1.1.) → 1946.2.8.北朝鮮臨時人民委員会(委員長・金日成)
ここにおける
 ソ連軍占領政策の特徴 1)迅速な占領、2)準備の欠如(早すぎた日本降伏)、3)「解放」の対象としての北朝鮮
これに対して、
38度線以南 - 1945.8.15.朝鮮半島に最も近いところにいた米軍部隊は、沖縄占領部隊 → 8.11.第24軍団が朝鮮半島担当に任ぜられる
→ 9.4.沖縄発、9.7.第一陣仁川上陸 → 9.7.「マッカーサー布告」 - 朝鮮人を「敵国人」として扱う
その原因 - 支配の「建前」或いは理念の違い
 ソ連 - 「社会主義の盟主」として、第二次大戦を非抑圧人民解放の為の戦いと位置付ける 
∴ 「全ての非抑圧人民」は理論的に自らの味方となりうる(但し、誰が「人民」であるかを決める権限はソ連にある)
 アメリカ - 第二次大戦を基本的に国家間の戦いと理解する 
∴ 朝鮮人もこの枠組みでは「敵国人」となる
即ち、
 両者は、同じ「軍事占領」であっても、それが対する姿勢が全く異なった - 第二次大戦に対する「同床異夢」
→ これが尤も典型的に表れたのが、両者の「建国準備委員会」「人民委員会」に対する態度の違い
○ソ連 - その建前上、自発的に作られた「人民委員会」を正面から否定できない
→ 当初、その権威を認め、それを換骨奪胎してゆく(巧みな体制移行)
徐大粛『金日成』 - 「三段階論」 a.純粋な協力(1945.8.~1946.1.)、b.似非連合(1946.2.~1948.3.)、c.強固な体制(1948.4.~)
これに対して
○アメリカ - その建前上「敵国」において、自らの承認なしに成立・存在する権威は認められない
→ 建国準備委員会/人民委員会を否定(「政党」への移行を主張)
→ 当初から、これらの勢力と「対決」することとなる
それでは、
 この1945.9.に存在していた「建国準備委員会/人民委員会」とは何であったのか?
1945.8.10. 日本無条件降伏確定 → 直ちに、朝鮮総督府でも「終戦処理」開始
   8.11.~14.朝鮮人有力者への「治安協力」依頼 - 呂運亨の受諾
   8.15.「建国準備委員会」成立 → 以後、総督府の意志を離れて、事実上の政府、として行動
同様に地方においても、
 1945.8.15.敗戦による地方行政機関(警察含む)の事実上の機能停止
→ 代替的行政機関としての、「人民委員会」「治安隊」の各地での出現(極端な「親日派」を除く網羅的参加)
この状況は米軍には、
 「日本軍の依頼を受けた勢力が、政府の地位を僭称している」
→ 自らの最大の目的である「武装解除」を実現するためにも、軍政の妨げとなる彼等を排除する
この後の展開
1945.9.7. 米軍軍政を布告
1945.9.9. 阿部朝鮮総督降伏文書署名( → 総督府日本人官吏順次帰国、朝鮮人政治団体順次面接)
1945.9.11.朝鮮共産党再建発表
1945.9.16.韓国民主党結成
1945.10.5. 軍政長官朝鮮人顧問任命
1945.10.10.米軍「朝鮮人民共和国(建国準備委員会の後身)」の否定を声明
1945.11.23.大韓民国臨時政府(主席・金九)「個人資格で」帰国
1945.11.29.米軍、大韓民国臨時政府を否認
この結果、
 南朝鮮には、米軍政府に加えて、朝鮮人民共和国、大韓民国臨時政府、という三つの「政府」を自称する勢力が乱立
ここにおいて重要なことは、
○ソ連 - 将来の「政府」を睨んで最初に諸勢力の「連合」を作り上げる → 「(換骨奪胎された)連合」を受け継ぐ形で成立する、朝鮮民主主義人民共和国
○アメリカ - 「旧敵国」支配の為に自らを除くあらゆる勢力を否定 → 他勢力否定の結果、米軍政府を受け継ぐ形で成立する、大韓民国
最大のポイントは、
 何れにせよ、解放の後には、「(統一した)国家を作る」作業が必要であったこと
そして、そこにおいて、
 明確な中心を持たなかった当時の朝鮮民族勢力 - これを典型的に示す朝鮮人民共和国の「顔ぶれ」
主席・李承晩(李)、副主席・呂運亨(建)、国務総理・許憲(共)、内務部長・金九(臨)、外務部長・金奎植(臨)、財務部長・曺晩植(民)、文教部長・金性洙(韓)、司法部長・金炳魯(韓)、経済部長・河弼源(共)、逓信部長・申翼煕(臨)
→ 後に対立する人々を網羅的に並べているが、彼等には何の連絡もなし → 「政府樹立」に向けて彼等は合い争うことに
(その他の勢力が抜けることにより、人民共和国は次第に左傾化する)
その後の展開、
 反信託統治運動 - 米が提案し、英米ソが推し進めつつあった「朝鮮信託統治案」への反対運動( → 「失われた統一の機会」)
ここにおいて、
 賛託=共産党(政局の主導権を臨政に奪われる事を懸念) vs 反託=その他の勢力(但し、徹底反対・クーデター=臨政、平和的反対=李承晩系、妥協的反対=韓民党)
→ ここにおいて、
 共産党 - 韓国人の支持の急速な縮小(「即時独立」論の圧倒)
 臨時政府 - クーデター企図による米軍の弾圧( → 分裂、米軍との和解不可能化)
重要なことは、
 この状況においては南北とも、「米ソの支持を前提としての政権獲得」しか手段がなかったこと
ポイントは、1)占領国の最低限の支持、2)国民の間の正統性 → 誰が自らの勢力を壊滅させることなく、また過度に占領軍に擦り寄ることなく、自らの正統性を維持できるか
以後の展開
 1946.冬 臨政系勢力の大幅な勢力後退、申翼煕系勢力の離脱
      李承晩系勢力の活発且つ平和的な「反託運動」継続 → 「大韓独立促成国民会」へ
 1946.春 全国各地の人民委員会「接収」、地方における米軍支配確立
      朝鮮精版社偽造紙幣事件 → 朝鮮共産党幹部へ逮捕令
 1946.夏 李承晩南朝鮮単独政府樹立構想
 1946.秋 ソウル9月スト、大丘10月抗争 - 共産党系勢力の米軍政府挑戦と失敗
     (平和的抵抗運動の壊滅 → 反米・反軍政ゲリラ戦へ)
 1947.冬 南朝鮮暫定政府成立(民政長官・安在鴻) - 韓民党、過渡議会過半数を占める
そして、
 1947.11.国際連合、国連監視下での南北朝鮮総選挙実施(アメリカ)案を、総会で可決
 1948. 1.国連臨時朝鮮委員団南朝鮮到着 - 李承晩・即時選挙実施主張(政府樹立後統一)、金九=金奎植・統一総選挙、左翼系=国連介入批判
 1948.4.「南北朝鮮政党社会団体代表者連合会議」(金日成・金科奉+金九・金奎植) - 北側譲歩せず
 1948.5.10.制憲議会選挙 - 李承晩系勢力圧勝・韓民党惨敗、臨政系・左翼系不参加 (投票率95%)
 1948.8.15.大韓民国成立
他方、北朝鮮においても、
 共産党(労働党)における「二人の指導者」 - ソウル(土着)派・朴憲永 vs 亡命派・金日成
→ 南朝鮮における共産党の「敗退」の結果、朴憲永も平壌へ - 金日成に次ぐ「強力なNO.2」
まとめると、
                   ソ連                 アメリカ
土着左翼系            良好(野党的)            対決
亡命左翼系            同盟(与党的)            --
建国同盟/中立系(土着)    対決                  対決
臨政系(亡命)          --                  対決
李承晩系(亡命)         --                  良好(与党)
韓民党系(土着)         --                  同盟(野党)
→ 米ソで与野党が逆転するのは、南朝鮮においては「選挙」が存在したため - 過度な占領軍との密着への嫌悪、カリスマ的指導者の必要
そして、両者に共通しているのは、
 1)占領軍と正面から「対決」した者が壊滅したこと
 2)一方で「敗北」した者がその「助け」を他方の支配勢力にしか求め得なかったこと(朴憲永、金九)、そしてそれが結局は無残な失敗に終わること
いずれにせよ、
 このような朝鮮戦争までの南北の混乱は、「国家なき民族」が現実の国際関係の中で「国家を持つ」に至るまでの、過程であり、独立の準備が十分にできていなかった朝鮮においては、これは熾烈な各勢力間の闘争と、混乱を齎すこととなった


第3講(2012/10/12)

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第4章 台湾における「二重構造」の出現

参考文献
 李筱峯『台湾クロスロード』(日中出版)
 林文堂『台湾哀史』(山崎書房)
 George H. Kerr, Formosa Betrayed, Eyre & Spottiswoodge

 台湾にとっての1945.8.15. - 朝鮮と同じく、戦場にならず、「解放後」の準備のなかった台湾
CF.台湾における「反総督府運動」 - 主として、「自治請願運動」の形を取る → それも早期に沈黙させられる
加えて、朝鮮半島よりも進行した、台湾の「同化」 - 長い統治期間、「自らの文化」に対する愛着の希薄...
CF.台湾の基礎知識 - 複雑な「民族」構成
 漢族系
  本省人=福建系(約70%)+客家系(約15%)
  外省人(約15%)
 マレー系(1~2%)(一四部族+α)
  高山族(不漢化)=一二部族+α
  平埔族(漢化)=二部族+α
また、
 「占領」当事者たる中国の準備不足 - 10.16.まで国民党軍は台湾に上陸せず(林献堂への治安協力要請等、朝鮮半島類似の状況が存在)
しかし、台湾が朝鮮と決定的に異なったのは、
 「帰るべき祖国」が存在し、それに対する巨大な期待が存在したこと
CF.今日の台湾人の日本統治への相対的な好評価 - 1945年の段階では見ることができない
そこに存在するのは、抑圧的であった日本に対する「嫌悪感」と、まだ見ぬ祖国への期待感 - ポイントは、この時点では台湾人が「日本統治以外のもの」を未経験であること
CF.祖国への期待と同様に存在した「アメリカへの期待」
さて、この状況は、
1945.9.9.林献堂等、南京の日本軍降伏式典出席
1945.10.17.国民党軍基隆上陸
1945.10.28.安藤総督、降伏文書調印
この直後から、
 大陸人の大量流入、彼等による日本系資産(産業の90%、土地の70%)接収・分割
1946.初頭 汚職事件相次ぐ「五子登科(カネ・家・車・女性・地位)」
また、台湾における行政府の整備
 1946年末 行政長官(知事)以下の高級官僚21人の内、1名を除いて大陸人が占める
中間官吏職以下でも、
 秘書 - 17/0、専員 - 80/7、科長 - 33/0、股長 - 95/7、視察 - 56/3、主任 - 16/0
更に、
○日系資産接収・分割と、内地からの経済的分離による、経済的破綻 → 失業問題も深刻化
○治安悪化 - 軍紀の乱れた国民党軍による、略奪・暴行
この背景に存在したのは、
 大陸人と台湾人の屈折した相互理解
 台湾人 - 豊かな台湾人から見た「田舎の行商人よりも情けない」姿の国民党軍 「あれが戦勝国の軍隊か!?」
 大陸人 - 「おまえたち台湾人は、今まで日本人の犬になって、祖国に刃向かってきた」
→ ここにおいても見られたのは、「果たして台湾人は『敵国民』か?」という問題 - 自ら勝ち取ったものではない「自由」
台湾人は自らを、大陸人と対等な「同朋」と看做し、大陸人は自らを、「勝者」と看做して行動した
結局、
 台湾人から見れば、状況は、日本人の地位に大陸人が取って代わっただけにすぎないものと見えた(日本の植民地から、大陸の植民地へ)
「犬が去って、豚が来た(当時の張り紙)」 - 同じ支配者なら、近代化されているほうがまだまし 「日本人のほうがまだましだった」、という言説の誕生 → 「親日的」台湾人の登場
このような彼等の対立は、
 1947.2.28.「二二八事件」 - 大陸人取締り官による闇煙草商殴打事件(前日)から、台湾人の総決起へ
○デモ → 陳儀長官への「請願」 → 発砲 → 総決起 → 自警団形式による「武装化」 → 二二八事件処理委員会設立(全島組織)
    3.4.陳儀、「真相究明」「政治改革」を約束
    3.8.国民党軍第二一師団上陸 - 弾圧開始 「3月の大虐殺」
→ この弾圧により、旧来の台湾社会エリートは壊滅(殺害・投獄・亡命・社会的逃避等々)
この結果としての、
 台湾における、大陸人支配の確立 - 台湾人は「口をつぐむ」ことに
○政府・国民党・軍隊・公営企業・民間大企業 - 大陸人
○中小企業・自営業 - 台湾人
 の明確な二重構造が出現する
加えての、
 1949年における、国民党の台湾への「退却」 - 従前にも増しての大量の「外省人」の流入
これは、台湾における「二重構造」を一層激化させるとともに、
 これら外省人の「唯一の基盤」となったことで、この状態の固定化が進むことに
更に、
 「全中国を代表する」国民党が、実際には「台湾という一つの島を支配するだけの状況」は、国民党統治下の「民主主義」を著しく形骸化させる
→ 「立法院」は「全中国」を代表するもの - 「終身議員」の登場
本講義において重要なことは、
 このような一連の経過の結果、台湾の人々が、1945年に有していた「祖国・中国」に対する幻想が急速に失われてゆくこと
「あいつらは我々とは違う人間だし、あいつら自身も我々を仲間だとは看做していない」
→ 「中国人」と異なる「台湾人」意識の急速な成長
そして、見落とされてはならないことは、
 台湾においてはその素地が存在したこと - 日本統治下における「本島人」意識
(台湾総督府統治下に用いられた概念 - 中国人とも内地人とも異なる「本島人」 - 「南方の」「おおらかで」・・・)
→ 以後、台湾人はこの日本統治下において作り出された「意識」を(マイナスの意味をプラスに変える形で)再解釈することにより、「我々」を定義してゆくこととなる



第4講(2012/10/19)

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第5章 朝鮮戦争とアジアの冷戦と構造の固定化

参考文献
 和田春樹『朝鮮戦争』(岩波書店)
 Glenn D. Paige, The Korean Decision, The Free Press
 小此木政夫『朝鮮戦争』(中央公論社)
 児島襄『朝鮮戦争』(文春文庫)←専門書ではなく、ノンフィクションです
 
以上の様な1945年~1950年頃の状況
1)中国大陸における政権交代 - 「親米的中国」の消滅
2)親ソ的中国成立による満洲権益の確定 - 東アジア最大の問題の消滅
3)朝鮮半島の分断と、南朝鮮の不安定化
4)台湾の「自由中国」化
しかし、ここで重要なことは、
 この段階ではこれらには以前「流動的」な部分が存在したこと
例・アチソン(米・国務長官)=ライン 1950.1.12.
 「不後退防衛線」の設定 - アリューシャン列島・本州・沖縄・フィリピンを結ぶ線から内側を、アメリカが軍事的防衛に直接関与する地域、とする
これをひと目見てわかることは、韓国・台湾がその「外」に置かれていること
 「現地の防衛努力が必要であり、国際連合等の役割を含めて、重層的な対応を行う」
→ この声明は、ソ連と北朝鮮には、アメリカが韓国(や台湾)を放棄する可能性があるものとして受け止められる
そもそもこの時期のアメリカは、
○台湾 - 腐敗し、非民主主義的な蒋介石政権の防衛を望まず
例・「台湾不支援」 - トルーマン・アチソンの台湾への武器販売不許可 → 米国内での反発もあり
1950.5.共産党台湾侵攻説(6~7月) - 「反蒋クーデター計画」
○韓国 - 李承晩の「北伐」警戒、また、李承晩政権の不安定化(1950.5.30.選挙敗北)憂慮 「李政権は危機である」 1950.6.10.
これらの背景として存在するのは
 アメリカの新中国との関係改善への期待 - ソ連はともかく、中国は刺激し、敢えて向こう側に追いやるようなことはしたくない
それでは、
 共産党の台湾侵攻を憂慮していたアメリカは、北朝鮮の韓国への侵攻の危険性をどう見ていたのか
1)北朝鮮の軍事的優勢の認識 「人民軍はそのように選択すれば、攻撃はできる」
2)北朝鮮政府の攻撃的姿勢認識 「北朝鮮政府の攻撃的な姿勢は自発的」
3)ソ連の意図重要視 「しかし、クレムリンが世界共産主義に有利だと考えなければ、この時期の侵攻はないであろう」
(これらは、何れも1950.3~4月侵攻説に対して)
このような認識を支えているのは、
 「一枚岩である共産諸国との戦争」=世界戦争、+、第三次世界大戦=核使用(1949.9.ソ連核実験)、である、というアメリカの認識
→ 「小規模な攻撃はともかく、世界戦争の危険性を孕む冒険をソ連は行わないであろう」
他方、
 北朝鮮側 - 攻撃を開始する理由の存在
1)南に対する自らの純軍事的優越の認識 - 兵量・兵器+対中国境軍不要化+中国内戦参加部隊帰国
2)南における「反李承晩政権」蜂起の予測 - 南朝鮮遊撃隊
3)米軍の不干渉への期待 - アチソンライン
重要なことは、
 この時点において、安定した基盤の上に存在する北朝鮮の政権は、韓国に対して圧倒的優位に立っており、彼等には「統一」は現実の目標であった(解放から僅か5年後の1950年)
そして、このような「明るい」見通しは、国内の政治状況においても、
 金日成 - 依然、「同輩の第一人者」に過ぎない地位から、「統一の実現者」となることで、ぬきんでた存在となる
 朴憲永(当時のNo.2) - ソウル派の首領として、お膝元のソウルを奪還し、朝鮮民主主義人民共和国の首都とすることにより、自らが主導権を握ることを狙う
これらの結果、
 北朝鮮首脳部は「開戦」の方向に傾く
1950.1.19. 金日成、 スターリンに開戦を要請 「(中国に続いて)次は朝鮮解放の問題だ」
   1.22. 毛沢東、スターリンからこの件に関し電報、好意的返信
   1.30.「大きな問題は準備が必要だ。会う用意がある」 - 金日成スターリンの同意と判断 「それが手早くなされれば、アメリカは介入しないだろう」スターリン
   4. スターリン、金日成・朴憲永と会談 - スターリン自らの支持を明らかにした上で、毛沢東の同意を求める
     → 毛沢東「あんな小さな領土の為に(アメリカは介入しない)」「万一米国が参戦するならば、中国は兵力を派遣」
CF.「米国が2万ないし3万の日本軍を派遣する可能性が全く排除されない」金日成・毛沢東 - 日米自身よりも早く中国は日米との対決を予想
  1949.7  毛沢東「向ソ一辺倒」宣言
      10  ソ連が新中国を最初に承認
      12  毛沢東がソ連を長期訪問
   1950.2 中ソ友好同盟相互援助条約締結
        5 ソ連軍事顧問団着任、作成計画立案
    中国、中国国籍・中国党籍の朝鮮族派遣
CF.兪成哲朝鮮人民軍参謀部作戦局長 - 朝鮮系ソ連人、59年ソ連帰国 → 回顧録
結果としての、
 1950.6.22.金日成、全面的南進作戦指令下達
 1950.6.25.朝鮮戦争勃発 - 北朝鮮軍の南進開始
以後の戦争の大まかな結果
 1950.6.27.李承晩ソウル脱出、韓国政府、水原移転
       トルーマン、韓国への米軍投入と、第7艦隊台湾海峡派遣を決定(★ポイント1)
     28.北朝鮮、ソウル占領
     7.5.米軍、北朝鮮軍と初交戦(惨敗)
     7.20.北朝鮮、大田占領(米軍惨敗)
     7.7.国連安保理、国連軍創設決定
     7.16.韓国政府大丘移転(翌日釜山移転)
     8.4.北朝鮮軍、洛東江渡河開始(8月攻勢)
     8.30.マッカーサー仁川上陸作戦下達
     9.15.仁川上陸作戦(北朝鮮軍崩壊)
     9.28.国連軍、ソウル奪還
     10.1.国連軍38度線突破(★ポイント2)
     10.18.中国軍、鴨緑江越える
     10.19.国連軍、平壌占領
     10.25.中国軍、攻勢開始
     10.26.韓国軍、鴨緑江到達
     11.1.国連軍、中国軍介入公式認定
     11.24,国連軍、クリスマス攻勢
     11.25.中国軍、第2次攻勢(国連軍、壊走開始)
     12.5.国連軍、平壌放棄
     12.15.国連軍、38度線以南へ撤退
 1951. 1.3.中国軍、正月攻勢
      1.4.国連軍、ソウル放棄
     1.15.中国軍、攻勢終了
     1.20.国連、中国を「侵略者」と認定
     1.25.国連軍、「サンダーボルト」作戦
     2.10.国連軍、漢江線へ
     2.11.中国軍、2月攻勢(失敗、国連軍自信回復)
     2.20.国連軍、「キラー」作戦
     3.7.国連軍、「リッパー」作戦
     3.15.国連軍、ソウル奪還
     4.22.中国軍、春季攻勢
     5.15.中国軍、5月攻勢
     6.23.ソ連代表マリク、国連にて休戦提案
     7.10.朝鮮軍事会談(休戦会談)開始(以後も、戦闘あり - 陣地戦)
  1953.7.23.休戦協定締結
結果、
 現在の「休戦ライン」に沿った南北分断の成立
 死傷者 - 韓国軍84.4万人(戦死41.5)、米軍15万人(3.3)、その他国連軍1.5万人
 損害 - 北朝鮮軍52万人、中国軍90万人
 捕虜 - 北朝鮮軍11万人、中国軍2万人、韓国軍7千人、米軍3千人、その他国連軍1千人
 動員兵力 1953.7. 米軍30.2万人、韓国軍59万人、その他国連軍3.9万人
 民間人被害 - 韓国86万人(23)、北朝鮮200万人
CF.太平洋戦争における日本軍戦死者250万人
この戦争におけるポイントは、
 1)米軍投入 - この段階では、これが朝鮮半島における限定戦争か否か不明+崩壊寸前の韓国政府
  → 東アジアの他地域への戦争拡大を阻止するための、韓国救援
 背景
  「欧州のアチソン=ライン」 - イギリス海峡に引かれる
  → 韓国の崩壊は、台湾の崩壊をもたらすだけではなく、欧州各国、特に不安定な政情を続けていたフランスへの影響を及ぼす可能性大
 実際、この効果は、
  1950.6.30.中国、台湾解放を断念
        フランス国内世論の転換 - 「反共十字軍」としてのインドシナ戦争の新たな位置付け
 2)国連軍の38度線突破 - 朝鮮戦争を防衛戦から、統一戦(それまでの線引きを変える戦い)へと変える
  ここにおけるアメリカの「誤算」 - 「中ソは介入しない」 
  → 結果としての、米中の直接対立
さて、この戦争において重要であったのは、
 1)朝鮮半島の南北分断、中台分断の確定 - 物理的(休戦ライン)、精神的障壁の出現
→ 大国は接触できるが、当事者同士は接触できない「壁」の出現 - 各国の「主たる外交関係」が確定してしまう
 韓台 - 日米、北朝鮮 - 中ソ(大国同士は互いに交渉できるが、当事者たる小国は交渉さえ許されない)
→ 限定された国際的枠組みの中での、各国の戦後の政治(外交のみならず、内政においてもオプションが限定される)
 2)米中の対立構造の確定 - 「向ソ一辺倒」1949.7.の確定(アメリカの幻想崩壊)
→ 以後、アジアにおける冷戦は実質的に米中の対立として現れることとなる → ベトナム戦争へ
 3)韓国、台湾のアメリカ「防衛ライン」組み込み - 東アジアの冷戦における「衝突ライン」の明確化
CF.国民党政権の「参戦」提案 - 第2戦線案(中国本土)、3.3万人朝鮮半島派兵案
→ これ自身は、戦争の中国全土への拡大を恐れるアメリカにより阻止される 1950.6.29.
 ∵ 朝鮮戦争 - 北朝鮮崩壊を恐れる中国の参戦
→ ありうべき中国戦争 - 中華人民共和国崩壊を恐れるソ連の参戦(?!)
 また、加えての、第2次大戦を終了したばかりのアメリカ国内の厭戦ムード
- 「ドイツはわかる。日本もまだわからないでもない。しかしどうして、コリアで我々が死ななければならないのか」
 4)世界の「裏口」への冷戦の波及 - 冷戦構造が欧州正面からアジアにも波及し、アジアでの情勢が大きく注目されることとなる
  → 「(現実化した)共産主義の脅威」を「まずアジアで」食い止める
  → 「ドミノ理論」 → ベトナム戦争へ
 5)「限定戦争」の登場 - 「核」の時代における新たな戦争形態の出現
 朝鮮戦争 - 実際には、米中ソ日の四大国が「参加」、しかし、これらに直接は「波及」しない「奇妙な戦争」
 CF.日本と朝鮮戦争 - 「朝鮮特需(物資供給)」、「掃海艇」、基地使用、警察予備隊
  → 「核」の時代においても「戦争はできる」ことが証明される
これ以降の世界は、
 「余りに重要すぎて戦争が波及できない地域」(米・ソ・欧州・中・日)と、「それ以外の地域」に分けられる


第5講(2012/10/26)

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第6章 韓台におけるアメリカ援助と「輸出志向型発展戦略」

参考文献
 谷浦孝雄『韓国の工業化と開発体制』(アジア経済研究所)
 エズラ・F・ヴォーゲル『アジア四小龍』:(中央公論社)
 Thomas B. Gold, State and Society in the Taiwan Miracle, An East Gate Book
 服部民夫・佐藤幸人編『韓国・台湾の発展メカニズム』(アジア経済研究所)

以上のような経緯を経て、確立された、韓国と台湾 → 朝鮮戦争終結以降、今日に至るまで急速な経済発展を続ける
では、それを齎したものは何か? -  これを見るポイント
1)「輸出主導型経済戦略」 - 経済を発展させる際の「市場」として海外市場を用いる+「資本」においても「外資」を用いる
注意しなければならないのは、
 今日においては「当たり前」に見えるこの戦略は、1960年以前においては「異端」に属するものであったこと
それ以前の「経済発展」
★ A.自生型経済発展 - イギリス>アメリカ>フランス - 経済発展は政府の施策とは大きな関係を有さず実現される
CF.重商主義 - 一定の政策が経済の刺激となる
CF.「中央銀行」を有さなかったアメリカ
★ B.(戦前)国家主導型経済発展 - ドイツ・ロシア/ソ連・日本
 特徴・経済発展において国家が「意図的」な役割を果たす - 工場建設、技術開発(CF.「工学部」 東京大学 1886、Cambridge University 1875、Oxford University 1907、Harvard University 1906)、銀行、鉄道
 しかしながら同時に、この為に必要な資本は基本的に国内から動員 - 特に直接投資の少なさ
→ これを実現する為の「強力な国家」
 但し、「市場」としては、海外の市場を用いる - Made in xxxx、イギリスの国産品愛用運動に起源を発する
★ C.(戦後)国家主導型経済発展(「インドモデル」「輸入代替工業化」モデル) - 中国・インド
 「政治的独立」に続く第二段階としての「経済的独立」 - その為に外国資本をシャットアウトする
→ 「自力更生」「主体思想」 - 自らの力、による経済発展
 同時に、これらの産品は主として、国内市場向けのものとされる
- 「輸入代替」旧宗主国への経済的従属を断ち切る為にも、主要産品の国内生産を促進する 「経済的自立」
註・ここにおいては、「経済的発展」よりも、「政治的自立」が重視されている
因みに、
 このような考え方は、後に、
 一国経済発展路線の挫折 → 途上国連帯の必要性 - と、展開される(AA会議、非同盟諸国会議、OPEC、「従属理論」)

さて、
 それでは、何故に、韓国と台湾は、世界の主な途上国が他の路線を選択している際に、異なる選択を行ったか?/行えたか?

(い)輸出 - 何故「輸出」するのか(「輸出」と国内販売はどこが違うか) → 「外貨」が欲しいから → 何故欲しいか → 経常収支が極端な赤字だから → では、何故赤字なのか
 a)輸出産品の欠如 - 両者における「米」輸出能力の崩壊 - 肥料・インフラの欠如・供給途絶、人口増加(台湾)、戦争(韓国)
 b)輸入産品の増加 - 食糧輸入、兵器輸入、産業復興 → 戦前から「輸入」を前提とした非自給的経済体制を有する韓国・台湾
 c)このギャップを支えてきたアメリカ援助の急減(50年代後半) - 東アジアからベトナムへのアメリカの視点変化
→ この赤字を埋めるためには、1.輸入を減らす(不可能)、2.輸出を増やす、3.援助を他から獲得する、の三つの方法しかない
ここにおいて、
 韓台両国にとって新たに獲得できる「援助」 - もう一つの「大国」日本からしかない - 名目としての「賠償」
  台湾 1952日華平和条約 - 中華人民共和国との間に「天秤」をかけられることにより、対日交渉力小
→ 「賠償」としての援助断念(「承認してもらう」)
  韓国 1965日韓条約 - 「賠償」請求権を放棄する代わりに、無償3億ドル、公共借款3億ドル、商業借款3億ドルを獲得
→ しかし、これも「一時的なもの」に過ぎない → 根本的な是正手段としての「輸出」の必要
もう一つの手段としての、
 アメリカからの追加的援助獲得 → この為のアメリカへの「経済外的協力」
その象徴としての、ベトナム派兵 - 韓台両国とも、自らこれを「アメリカがその意図をいぶかしく思うほど積極的に」主張する
→ 結局、台湾の大規模派兵は、中国の本格的介入を恐れるアメリカの意図から行われず、韓国からは最大時5万人近い兵力がベトナムに派遣される(アメリカ・47.5万人、台湾・31人)
→ 軍事援助・在韓米軍駐留維持・日本援助要請支援+「ベトナム特需」(アメリカはこの特需∋輸出、を優先的に韓国に回す)
また、ここにおいて、
 両国において新たに開発できる「一次資源」の不在 - 農業・鉱業の限界
→ 「輸出産品」は工業製品に限られる
- しかも、先進国に対して自らが有する最大のメリットである低賃金をフルに生かすことの出来る、労働集約型産業への集中
CF.「インドモデル」 - 先進国からの輸入を減らすために、あらゆる工業の国産化を目指す
 例・インド - 自動車産業、鉄鋼産業 中国 - 造船業、製鉄業、自動車産業 (+核開発+宇宙開発)
しかし、これはそもそもが国の規模が極端に大きく、
 そのスケールメリットをフルに生かすことの出来る、「途上国大国」だからこそ可能なこと
CF.原子爆弾、弾道ミサイル - 1940年代の技術 → 開発に費用はかかるが、技術的にはそれほど「難しい」訳ではない
 結果として、 「先端的ではないがとりあえず使えるもの」ものが、「貧しいがそれなりに大きな規模をもつ市場」において、消費される
→ しかし、このような路線は、「小国」であった韓国・台湾には不可能
言うまでもなく、
 ここにおいて、韓台が、印中と決定的に違ったのは、その生産物に「国際的競争力」があり、巨大な「海外市場」を使うことにより、この産業に特化することができたこと

(ろ)国家の「能力」と外資導入
 「輸入代替」のもう一つの目的(社会主義国を除く) - 先進国との競争力を持たない、自国の既存産業の「保護」
この背景に存在する、
 各国政治家の、現地資本への依存 - 経済界の有力者の意向を無視して政治を行うことは難しい
では、韓国と台湾においてはこれは何故、可能であったか?
 台湾 - 外来政権としての国民党政権
 韓国 - 亡命政治家・李承晩、「軍事革命」・朴正煕
→ 共に「通常」の民主的政治過程から選ばれたのではない - 選挙の為の「カネ」「地盤」「人脈」等を、大きくは必要としない
CF.権威主義体制論 - アジアが経済発展出来たのは、アジア諸国が独裁的政権を有していたからだ
しかしながら、
 このような政権においても、実際に経済的有力者や各企業を「動かす」には、その為の手段が必要
- 一人一人銃で脅かす訳にはいかない( → 資本の国外逃避、「ブラックマネー」化)
そして、
 この両国において重要であったことは、両国の政府が、金融機関を自らの傘下に収めていたこと
この背景
 1.日本統治時代における圧倒的な日本人資産 - 銀行もその例外ではない
 2.総力戦体制期における朝鮮/台湾両総督府による経済界への介入 - 現地人資本の事実上の国営化
 3.日本敗戦による「日本/日本人資産接収」 - 金融機関の大半が「国有」或いは「公有」の状態で1945年を迎える
結果としての、国家の金融統制
 国家はこれを通じて、経済を支配できる → 経済界をして輸出へと誘導する
CF.このことの「政治的」重要性 - 金融機構を支配している限り、国家は自らに反対する勢力の「金づる」を何時でも締め上げることが出来る
→ 「権威主義体制」の経済的基盤
加えて、
 この巨大な経済的統制力は、政治的統制力と相俟って、「外資導入」に反対する世論・業界を抑えむことにも寄与する
∵ 韓国・台湾工業 - 中間財を全面的に輸入に依存
→ 各企業は自らの操業を継続するためにも、一定の「輸入」が必要 - この為に必要な「外貨」の分配を手中に収める国家への従属
EX.輸出信用状 - 一定の輸出を条件にして始めて外貨の貸出を受けることができる
CF.尤も、この時期の韓台、特に韓国の「経済的開放」の度合いは今日の各国のそれとは比較にならない 
EX.合弁企業における外資出資制限
→ にも拘わらず、この程度の「開放」であっても、当事においては稀有のものであり、日米の資本は安価な労働力を利用する為に韓台に進出

何れにせよ、
 この結果、韓国と台湾は、この時期においては例外的な、「開放的」な「輸出主導型経済」を作り上げてゆくことに
→ 国際競争力を持つ両国は、膨大な世界市場を利用することにより、多大な利益をあげる


第6講(2012/11/02)

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第7章 「大国」中国のプライドと迷走

参考文献

 宇野重明他編著『現代中国の歴史』(有斐閣)
 矢吹晋『文化大革命』(講談社現代新書)

それでは、韓台が後の経済成長への「転換」を行っている頃、中国はどうしていたか
CF.中国経済の基本的認識
 一人当たりGDP実質購買力ベース

→ これらからもわかるように、近年の目覚しい発展にも拘わらず、内陸部を含めた全体としての中国は、依然として非常に経済的に貧しい状態にある
CF.朱熔基首相「日本は繁栄している」 - 2000年の訪日で
ここでの最大の問題点は、
 何故に中国はこれ程経済的に「遅れて」しまったのか
1)1945年以前における「近代化」の失敗 - 清朝の「初期近代化」失敗、辛亥革命以後の混乱、日中戦争
→ しかし、それだけでは、これは説明できない
∵ 1985年物価水準での一人当たりGDP( 参照・http://bized.ac.uk/dataserv/pennext.htm)

中国 韓国 台湾 日本 フィリピン
1960 564 898 1255 2943 1133
1980 971 3093 4458 10068 1882

一目でわかるように、
 この20年間で韓国と台湾が劇的な経済発展を遂げたのに対し、中国は著しく停滞 - この原因は何であったのか?

中華人民共和国建国以降の中国の状況
 1949 中華人民共和国建国 - 「官僚資本(4大家族 - 蒋介石・宋子文・孔祥煕・陳果夫)」接収
→ 対インフレ政策を軸にする経済復興
 1950 土地改革
 1953 第一次五カ年計画(向ソ一辺倒、以後の社会主義的計画経済 - モデル・ソ連第一次五ヵ年計画、~1957)
 ソ連をモデルとした「重工業優先」政策

さて、ここで重要になるのは、
 これだけなら「中国もただのソ連型の社会主義国」に過ぎなかった
→ しかし、ここから中国は、「独自の道」を歩みはじめる

具体的には、
 1953 スターリン死去
     毛沢東「四大自由(雇用・商取引・金銭貸借・借地)」批判
 1954 社会主義憲法体制移行
 1956 フルシチョフ、スターリン批判
     第二次五ヵ年計画策定開始 - ソ連離れの開始
     自力更生論 - ソ連のミサイル(+原爆)技術供与拒否
     「反盲進論」
 1957 「反右派」闘争開始
     「大躍進」政策
CF.「15年後、ソ連はアメリカを、中国はイギリスを追い越す」 - その象徴としての鉄鋼生産
→ 「土法製鉄」の悲劇へ
     「反盲進論」批判
 1958 中ソ論争(~1959) - 軍事問題を中心とする論争
     金門・馬祖島砲撃
     教条主義批判
     人民公社ブーム
     毛沢東国家主席辞退
 1959 劉小奇国家主席就任
     廬山会議 - 国防部長彭徳懐失脚
 
これらの経緯からわかることは、
 スターリン死去後における、「社会主義の標準」消滅が、中国の進むべき路線の混乱を引き起こしていること
→ ソ連に倣うのか、それとも「ソ連の先」を行くのか
CF.スターリン死後の「中ソ」対立 - 国家対立であると同時に、「社会主義圏のリーダー」としてのスターリンの継承者争いでもある
 フルシチョフ - 社会主義の母国、ソ連の指導者が、当然、社会主義国のリーダー
 毛沢東    - スターリンはともかく、フルシチョフに従う理由はない
これを加速した、
 フルシチョフの「雪解け政策」 - アメリカとの対話再開
 1954.1.モスクワ4国外相会談(7年ぶり)
 1954.4.ジュネーブ会議(東アジア問題討議)
 1955.7.ジュネーブ四大国巨頭会談(が、これは西ドイツNATO加盟問題で紛糾する)
そして、
 同時に重要なことは、このような中ソの対立は、必然的に、軍事的問題に直結していたこと
- 朝鮮やベトナムで「熱い戦争」を資本主義国と戦う中国としては、ソ連の「雪解け政策」は容認できず
では、
 「ソ連なしにどのようにして、自らの国を守ればよいか?」→ これを典型的に表わす、毛沢東vs彭徳懐
 毛沢東 - ソ連の支援がないであろうことを前提としての「人民戦争」
   全国各地に、軍事・農工業その他の全てにおいて自立的な機能を有する抵抗拠点を作る → 「人民公社」
   また、このような脅威に迅速に備えるための、強力な経済開発の必要 → 重化学工業への過剰基本建設投資
 彭徳懐 - 朝鮮戦争(自らが総司令官)の経験を基に、軍隊の「現代化」の必要と、そのためのソ連との一定関係維持
結局、
 毛沢東は、彭徳懐を「フルシチョフ修正主義の手先」として、失脚させる
しかしながら、
 このような毛沢東の余りにも急速な「自立」を目的とする政策は、経済的・社会的破綻を齎す
→ 飢餓、バランスを欠いた工業、生産量を過度に重視することによる質の著しい低下
→ これに対する批判の再噴出
 1959~60 食糧危機 → 「大躍進」の後退
 1961 「公共食堂」廃止
 1962 劉少奇、「大躍進」批判的総括 - 責任を「党中央」に求める(盧山会議も批判)
     毛沢東、北戴河会議講話「私は長いこと諸君から圧迫を受けてきた。二年以上もだ。少しは諸君に反撃してもかまわないだろう」
 1963 「五反運動」 - 「農村における階級闘争が遅れている」
     社会主義教育運動
 1964 奪権闘争本格化
     「修正後10条」
     第1回原爆実験成功
     周恩来、「四つの現代化」
ここに見られるのは、先の軍事路線対立の根本となる二つの路線の対立
 1)劉少奇・鄧小平「実権派」 - 「上から指導される」社会主義(普通の社会主義)
  政治面 - 党中央による地方掌握、経済面 - ソ連型の上から管理された計画経済
   → この前提「中国は既に社会主義国であり、革命は終わった」「今は、建設の時期である」
 2)毛沢東 - 「継続革命」論
  社会主義体制下においても、「革命」は継続される ∵ 人々の意識を「革命」しなければならないからだ → 「文化」大革命へ
結果として、
 1965 羅瑞卿(参謀総長)・林彪論争 - 毛沢東・彭徳懐論争の再現
     毛沢東、「党中央」の修正主義を批判
     姚文元「『海瑞の免官』を評す」 - 文化大革命の事実上の開始
     羅瑞卿解任
 1966 林彪「5・18クーデター講話」
     「プロレタリア文化大革命についての決定」
     劉少奇・鄧小平、自己批判
 1967 上海コミューン - 各地の「地方政権」が紅衛兵により順次「下から」駆逐くされる
     武漢事件
 1968 「5/7幹部学校」
     劉少奇除名
     毛沢東、紅衛兵運動の終了を宣言 - コミューン理念の明確な否定
 1969 林彪、毛沢東の後継者に
     珍宝島事件(中ソ軍事衝突)
     劉少奇・陶鋳・賀龍獄死
以上のような経過を経て、「実権派」は打倒される
では、何故に、今日の観点から見て、「よりまともな」実権派がかくも簡単に打倒されたのか?
 1)軍事的危機意識 - a.中ソ対立後中国の強力な孤立・閉塞感、b.現実的な対米戦争の脅威(朝鮮からベトナムへ)
 2)マルクス=レーニン主義そのものの問題 - a.「前衛理論」の矛盾、b.コミューンの「美しき理想」
 3)「政治の時代」 - 経済的利益よりも優先された「国の自立」 - 「例外」ではない中国の経験
しかし、これらの結果、
 1960年代の中国は極端な混乱状況 - 冤罪による死者・数十万、被害者・数千万、負傷者・数百万
→ 極端な経済的混迷へ
CF.大学閉鎖、青年下放 - 今日に至るまで経済的障害となる
が、
 実権を掌握した毛沢東は、結局、自らの権力と社会安定維持の為に、コミューン理念と決別
 1970 陳伯達、紅衛兵運動を再開を批判される
 1971 林彪グループ、クーデター失敗(林彪死去)
     キッシンジャー訪中
     国連、中国承認
 1972 ニクソン訪中
     日中国交正常化
 1973 鄧小平復活

→ 「鄧小平の中国」へ

第8章 中国の脱イデオロギー化とソ連圏崩壊と経済成長

参考文献
 寒山碧『鄧小平伝』(中公新書)
 姫田光義『中国 - 民主化運動の歴史』(青木書店)

 毛沢東死後(1976年)の中国の課題 - 「脱文化大革命」を如何にして進行させ、中国を「普通の国」に戻すか

1975年~1976年の状況 - 周恩来・鄧小平(1973年復活)vs「四人組」の勢力均衡
 1975.周恩来、「四つの近代化」提起
     鄧小平、「軍の整頓」提起
     毛沢東、「水滸伝批判」(周恩来、鄧小平批判) → 「右からの巻き返し批判」へ
 1976.1.周恩来死去、華国鋒首相代行就任
     4.第一次天安門事件(死者多数)、鄧小平解任、華国鋒首相就任
     9.毛沢東死去
     10.葉剣英、「四人組」逮捕、華国鋒国家主席就任
ここで浮上した「両面派」華国鋒 - 毛沢東・「あなたがやれば私は安心だ」 → 毛沢東同様、左右両派の(超越的)調整者として機能する事により実験掌握を図る
→ この華国鋒の権力の源泉としての「毛沢東からの権力継承」 - 「毛沢東路線」の堅持を宣言「二つのすべて」
しかし、
 ここで問題となるのは、「文革派」を切り捨てての、「毛沢東路線」とは何か? → 華国鋒は「左」を最初に切り捨てる事により「党内左派」として逆に攻撃される
即ち、「華国鋒の最初の一手」は、中国共産党内部の左右バランスを崩壊させる
そして、
 「鄧小平を再失脚させた四人組追放」の結果としての、鄧小平の再復活(1977年)
 1977.8.華国鋒文革終了を宣言
 1978.2.経済「洋躍進」路線
     8.右派の名誉回復
     11.鄧小平、「思想解放」を主張
     12.「四つの近代化」路線確定 → 経済成長優先路線へ
 1979.1.「北京の春」事件 - 魏京生逮捕
     3.チベット族反乱リーダー釈放
     3.鄧小平「四つの基本原則」
     9.葉剣英、文化大革命批判
 1980.2.胡耀邦、総書記就任
     5.劉少奇追悼会
     8.華国鋒首相辞任、趙紫陽首相就任
 1981.1.林彪・「四人組」事件判決
     6.共産党、文化大革命を全面否定、華国鋒党主席解任
→ 鄧小平を中心とし、胡耀邦・趙紫陽等を重要なパートナーとする体制の確立
最も、ここで注意しなければならないことは、
 少なくともこの時点での中国の路線変更は、「政治重視」から「経済重視」への転換であり、政治システムそのものの変革を追及するものではなかったこと
→ ここで重要なのは、「経済成長を促進する」には何が必要か?ということ - 特に、政治的変革は必要か?
それでは、
 このような変革を支えた鄧小平を中心とする、中国の「右派」とは何者か?
毛沢東と鄧小平の最大の相違
 毛沢東 - 「首尾一貫した主張」を持ち、現実よりも、理想を優先する(革命家としての毛沢東)
   → ここにおいては、政治的プロセスは重視されず、彼がどのような「理想を追っているか」が重要
 鄧小平 - 「実事求是」を重要視し、理論的一貫性よりも、試行錯誤の結果としての現実的成功を重視する(実務家としての鄧小平)
   → ここにおいては、各人が有する「理想」は重要視されず、どのような「成果をあげつつあるか」が重要
この結果として、
 毛沢東指導下の中国 - 中国そのものは、毛沢東の指導に振り回されるが、毛沢東自身はその中から自らの思想的一貫性を高めてゆくことにより、一貫している
   → 人々は、経済的・政治的に先を見通すことが出来ず、毛沢東のカリスマだけが突出する
 鄧小平指導下の中国 - 鄧小平そのものは、現状の課題に振り回され政治的スタンスを一貫させないが、中国は大きくその方向を変えることはない
   → 人々は、経済的・政治的に先を見通し、安心して経済活動を行うことができるが、鄧小平そのものには毛沢東のようなカリスマは生じない
とはいえ、
 一大国の行く末が、指導者のキャラクターにより極端に左右され、決定に他者が介入することが困難であることには変わらない
→ 「そもそも鄧小平が『実利』と考えるものは、究極的には何なのか?」 - 不明確
しかし、ここで鄧小平にとって幸いであったのは、1980年代以降の時代においては、明確な経済発展の為の「モデル」が存在したこと
→ 中国にとってのモデルとしてのNIEs - 1950年代の鄧小平等にとってのモデルとしてのソ連との対比
その象徴的な主張としての、
 「権威主義体制論」 - 日本をはじめとする東・東南アジア諸国の経済発展を「権威主義体制」から説明する
→ 労働組合の抑圧、労働者の規律、政治的安定等々 → アメリカ等での東アジア理解がそのまま中国で受け入れられる
             「だから中国も政治的改革抜きに、否、権威主義体制のままだからこそ、経済発展をすることができる」
このような中国の選択は、同じ「改革」であっても、ソ連のそれと運命をわけることに
 ソ連の「ペレストロイカ」 - 経済発展の為に政治的民主化が必要であるとする EX.グラスノスチ - 情報公開、の促進
∵ 自由な企業家精神は、自由な社会でのみ発揮できる
→ 結果としての、「秩序」と、共産主義体制の正統性が崩壊 → 経済改革を本格的に志向する以前に社会的混乱が出現
CF.今日の復古主義 - ソ連国家のメロディーの復活(プーチンとエリツィンの違い)
これに対して、
 中国 - 飽くまで政治的改革に対しては、極めて消極的(経済発展には政治改革は必要ないと考える)
また、経済改革そのものも、ソ連のようにドラスティックな形で進行させるよりも、
 現状追認的に、「なし崩し」的に進行
今日の中国経済の成長は、新たに生まれた民間セクターを中心に成し遂げられる
このような路線選択が可能だった一因は、
 「独自の路線を選択した」「産業化の遅れた」「貧しい」「大国」としての中国
1)独自路線としての「非ソ連型」経済構造 - ソ連のような巨大国営企業に支配される巨大コンビナートを中心とした経済ではない
→ 非中央集権的な農業部門の脱集化は比較的容易(従来の構造を維持したまま、インセンティブを増加させることができる)
2)小さな産業セクター - その衰退が経済全体に与える影響は比較的小さい
3)貧困ゆえの膨大な低賃金労働力 - 潜在的な巨大市場と共に外資の大量流入を齎す(国営企業のマイナス分を補うに十分)
4)巨大人口ゆえの保護貿易の維持可能 - 輸出のために進出する外資と国内市場のために進出する外資の違い
また、
 民間企業に対する「上からの介入」 - 依然として、「党」を通じて人事等に介入することができる
にも拘わらず、
 広大な中国市場と、無尽蔵の低賃金労働力と、それ故の活発な外資流入
CF.日本の「少子化問題」 - 解決方法としての、実質的な「移民」許可(+女性労働力+老人労働力の活用)
CF.中国における「規模」のメリット - もし、中国が取るに足らない小国であれば、このようなビジネスへの制約条件が多い国に、外資が投資を行うか?
いずれにせよ、
 この結果としての、中国のなし崩しの経済発展と、停滞する政治改革 - このまま行くのか?


中国の選挙制度


中国の行政機関と共産党

共に、毛里和子『現代中国政治』早稲田大学出版会、2004年、より


第7講(2012/11/16)

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第9章 韓国と台湾における民族意識と対日感情

参考文献

 尹健次『現代韓国の思想』(岩波書店)
 若林正丈『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人』(朝日新聞社)
 李登輝『台湾の主張』(PHP研究所)
 田中明『韓国の「民族」と「反日」』(朝日文庫)

1980年代における韓国と台湾の民主化 - 世界的にも稀な成功的事例

それでは、
 このような大きな変化は、何故に80年代に可能となったのか?

1.韓台両国の経済成長 - 「持てる韓国/台湾人」の出現
 民主化「運動」 - 本当の意味での貧困が存在する状態においては困難
∵ 1)多くの政治的・経済的資源を国家とそれに従属する資本が掌握する状態における民主化「運動」 - これを経済的に支えるだけの経済的「余裕」の必要
「運動」や「野党」を誰が支えるか

2.「脅威」の相対的後退
 経済成長による、「仮想敵」との経済的格差 → これは結果として、「仮想敵」との軍事的格差をも縮小させる(70年代の状況の再逆転)
→ 「もはや、強力な政権は必要ではない」

3.日米の従来型権威主義的政権への支援減少
 70年代東アジアの「デタント」 - 共産主義国との協調の為にも、権威主義的政権への過度の肩入れは困難に
加えての、「ベトナム・シンドローム」 → 「南ベトナムのような」政権を支援するべきではないし、また、支援を行ってもこれを支えることは限界がある
→ 韓国・台湾の存在を維持するためにも、「両国は民主化されるべき」

4.国内的・国際的「メディア」の発達
 従来の「反政府勢力」の大きなハンディキャップとしての、「運動」の為の「組織」の劣勢
→ 「メディア」の発達と、両国民の富裕化による「メディア」報道への注目は、野党をして従来のように「組織」に頼ることを、必要不可欠な要素とはしなくなる
→ 与党による「具体的利益(上からの利益配分)」の訴えに対して、野党が「抽象的利益(地域感情/「民族」感情)」へ訴える形での対抗

5.経済成長/計画の中での「配分すべきもの」の増加
 政府の中で支配的地位を占めることが、日常生活の中で大きな意味を持つ - 工場誘致、ポスト配分
(←→農業中心の生活における、「自律性」)

そして、その背後に存在するのが、
 従来の与党を支えてきた政治的基盤を(部分的にせよ)否定することのできる、「貧困を知らず」「戦争を知らない」世代の登場
CF.「貧しかった」「戦火に満ちた」時代を知る世代 - 過去の困難と、それ以後の平和と経済発展を知っているからこそ、大きな変革には消極的
 ∵ 万一失敗すれば甞てのように「全てを失ってしまう」、「現政権の行動には問題はあるが、その成果には見るべきものがある」
しかし、
 この時期に運動の主力を担った、朝鮮戦争/国共内戦後に生まれた「戦後世代」は、「豊かで安定している韓国/台湾」を当たり前のものと看做し、当時の政権の問題点のみを追求してゆくことになる(目標の変化) → 結果として、当時における「高度経済成長を齎した政権」に対する極めて低い評価

しかしながら、
 「政権交代可能な体制の形成」という意味での「民主化」には、それだけでは不十分
→ 如何にして、民主化以後の体制において、「与党の圧倒的優位」の形成を防ぐか
ここにおける最大の問題は、
 80年代、更には冷戦終結後の世界においては、1)外交的、2)経済的、両面の政策のオプションが非常に限られていること → 甞てのような「左右軸」にのっとった二大政党制は不可能
重要なのは、にも拘わらず「論点」が必要であること
そして、
 この点において、韓国と台湾はともに成功 - 韓国の「地域感情」と台湾の「台湾独立運動」
→ 共に全国民的な関心を呼ぶものであると同時に、全国民の共感を呼ぶことはないもの
→ それ故の安定した多党制

まとめると
1)経済成長+国際環境変化+独立からの年数経過による「権威主義政権」の崩壊
2)新たなる争点確立による民主化以後の競争的政治システムの形成
→ 韓国と台湾はこれに共に成功したと言うことができる

そして、
 このような「戦後世代」の台頭は、両国の日米中に対する見方をも急速に変えてゆくことに

★韓国
 旧世代 - 日本統治と朝鮮戦争を経験
→ 彼等にとって、日本が「悪」であり、また、朝鮮戦争において「アメリカに助けてもらった」ことは自明の経験
結果として、
 a)対日意識 - 日本が悪であることは「わかっている」ので「敢えてそれは実証する必要もない」
 b)対米意識 - 例えアメリカの要求が理不尽であっても、これとの決定的な対決は、韓国の破滅を齎す危険性がある
→ 「沈黙の中の」日米との「屈辱的協調」
これに対して
 新世代 - 日本統治を知らず、朝鮮戦争も知らない → 「目の前の現状」からのみの認識
 a)対日意識 - 日本が悪であることは「証明されなければならない」ので、これを個別に「発掘」して行く必要がある
  EX.教科書問題(実は誤報に基づく) - 甞てからの記述が80年代に「発見」される
     強制連行・従軍慰安婦問題 - 過去の日本軍の悪行の「発見」 → それでは、「旧世代」はこれを知らなかったか?(日本軍に従軍した旧世代)
  加えての、新世代の「自信」 - もはや日本など恐れることはない「克日論」
  → 80年代における過激な対日要求
 b)対米意識 - アメリカは「韓国のため」ではなく「自らの利益のため」に、韓国に存在している(「だからあてにならない」)
    しかし、そんなことを旧世代は知らなかったのか? - 「それでも必要だ」
  → 新世代はこれに対して、アメリカはこのような態度を「改めなければならない」
  背景・ベトナム戦争後の「アメリカはあてにならない(アジアを自らの利益の為には見捨てる)」+韓国人の自らの国力へ自信(変えることができる)
  加えて、これを補強する形となった、
   80年代の通商摩擦 → 「やはり、アメリカは自らの利益しか考えていない」
   80年の光州事件 - 「アメリカは裏で糸を引いていたのでは??(疑惑、但し真実ではない)」
  結果としての、80年代の、
   激烈な「反米運動」 - 各地のアメリカ文化院占拠・籠城、星条旗焼却、ソウル五輪時の米選手団へのブーイング
このような、
 日米も恐れることはない、とする意識は、当然、「日米がバックアップする」権威主義政権に対する強力な挑戦を一層強化する

★台湾
 旧世代 - 甞て自分達が日本に反発し、自らを「中国人」であると看做し、中国に期待したことと、二二八事件の悲劇を熟知
→ 彼等にとって「自らが何者であるか」は深刻な問題であり、また、国民党政権に抵抗することが如何に大きな賭けであるかを認識
結果として、
 a)対日意識 - 「中国よりはましだった」が「好ましいものではなかった」ことを熟知
 b)対中意識 - 深い絶望の中の「沈黙」(「あの日本より更に悪かった」)
これに対して
 新世代 - 日本統治を知らず、二二八を知らない → 「目の前の現状」からのみの認識
 a)対日意識 - 反中意識の中での日本支配の否定的側面は、自然に/故意に忘却される
 b)対中意識 - 新世代は中国を知らず、中国に行ったこともない(行けない) ←→戦前・中国への渡航は比較的自由であり、多くの台湾人が中国で活躍
 → 旧世代ほどに中国に対して親近感を持つことができず
 ここにおける韓国の反米・反日意識との相違
  韓国 - 日米を一つのブロックとして認識(日本は、アメリカよりも更に悪い、アメリカの手先) → 故に日米は同時に批判される(プラスの相関関係)
これに対して、台湾の構造は複雑
 二つの中国  
   a.中華人民共和国 - 日本がバックアップしている、或いは、日本がその手先である、とは到底いえない
   b.国民党政府 - 1972年の国交断絶 → やはり、日本がこれと一体とは言えない
 背景・日本の対朝鮮半島政策と対中政策の決定的相違としての、「中華人民共和国への遠慮」と「朝鮮民主主義人民共和国への無視」
   → 日本政府は、中華人民共和国への配慮として、国民党政府と常に一定の距離を置く 
 CF.日韓条約と日華条約 - 日本政府の国民党政府に対する相対的優位
それ故、
 台湾においては、対日意識は、寧ろ、対中意識と相対的にマイナスの相関関係を有する
また、対米意識
 79年の米中国交正常化により「ぶつける相手」を失う+海上防衛における第7艦隊への依存+潜在的な米中対立(「台湾条項」)
このようにして出現する、
 反中意識 - 二二八事件の「再発掘」や、類似の「美麗島事件」による擬似的再体験により直接的に、国民党政府に向けられる
勿論、
 この背景に存在する経済成長 - 中華人民共和国にも中華民国にも頼らず「台湾」は生きてゆける
→ 「中国」が自立した「台湾人意識」の急成長


参考

朝日新聞の記事の増減
韓国 朝鮮 東京裁判 靖国 戦犯 戦争犯罪 戦争責任
1945-49 299 1123 1005 65 418 1265 1122
1950-54 2998 8444 5 37 737 227 800
1955-59 2203 1909 0 42 329 1 361
1960-64 4944 1011 2 25 57 0 16
1965-69 3687 1925 3 81 58 19 1
1970-74 4791 2351 0 156 33 10 23
1975-79 5588 1917 6 94 79 3 10
1980-84 4669 1692 16 241 66 0 17
~~~~ ~~~ ~~~ ~~~~ ~~ ~~ ~~~~ ~~~~
1985-89 14799 7376 124 1481 548 137 824
1990-94 23039 17441 136 597 513 236 1347
1995-99 30224 18804 202 754 778 572 949
2000-04 39450 28179 174 3282 1192 463 592
2005-06.6 11615 6544 133 2571 569 129 221

註・https://database.asahi.com/より(最終確認2006127日)。1984年以前は、データベースの分類したキーワード、及び記事題目にそれぞれの語が含まれている記事の数、1985年以降は、記事の題目もしくは本文にそれぞれの語が含まれている数。


朝鮮日報の記事の増減
日本 光復 強制連行 歴史認識 歴史問題 慰安婦 独島 賠償 植民地 教科書 平和線 徴用 謝過 併合 反省 親日派(単独) 独立運動(単独)
1945-49 1236 1 0 0 0 0 0 47 0 0 0 1 0 0 2 31 11
1950-54 936 0 0 0 0 0 22 13 0 0 10 0 0 0 3 2 7
1955-59 3250 0 0 0 0 0 9 24 0 2 73 2 3 1 3 3 61
1960-64 4534 3 2 0 0 0 31 22 1 0 91 0 6 0 3 2 59
1965-69 3535 5 3 0 0 0 26 7 0 2 13 0 9 0 4 3 73
1970-74 5620 3 2 0 0 0 6 8 0 3 1 1 11 0 4 0 43
1975-79 4643 4 0 0 0 0 44 5 0 2 0 3 9 0 1 1 42
1980-84 5133 18 2 1 0 0 13 4 1 285 0 6 11 1 16 0 48
1985-89 4748 23 11 0 0 0 12 4 2 72 0 3 18 2 8 2 73
1990-94 17539 193 150 45 39 3 56 344 272 236 33 124 498 35 339 79 384
1995-99 28121 481 186 113 47 459 550 357 401 377 37 122 737 30 465 119 942
2000-04 34943 595 44 135 56 349 386 286 469 1158 25 117 793 79 393 174 839

註・http://www.chosun.co.krより(最終確認2006127日)。記事の題目もしくは本文に、日本という語に加えて、それぞれの語が含まれている記事の数を示している。但し、親日派、と、独立運動については、それぞれの語が含まれている記事の数を示している。


東亜日報の記事の増減
日本 総理 文化 歴史 経済 政治 歴史問題 歴史認識 韓国 記事数
1990 2574 228 284 347 836 640 0 8 1247 21602
1991 2663 275 192 216 835 481 0 5 1086 22100
1992 3169 205 222 290 977 638 2 7 1331 24429
1993 3291 297 300 258 1144 711 4 18 1368 25748
1994 3983 692 450 357 1167 726 0 14 1733 28655
1995 4273 523 636 530 1065 713 4 76 1999 32345
1996 4202 463 446 441 998 580 5 41 2129 34376
1997 3919 564 472 358 1147 564 2 15 2039 33403
1998 3673 568 542 342 1474 566 6 28 1795 29951
1999 4540 377 642 401 1083 467 1 6 2264 37503
2000 5318 514 818 548 1171 624 7 12 2600 43136
2001 6201 776 925 1032 1467 800 19 89 3624 45826
2002 6218 541 1043 766 1379 719 10 15 3746 50813
2003 5416 469 835 650 1321 702 10 13 3242 49215
2004 5467 530 825 783 1333 800 33 27 3178 47496
2005 6100 687 1143 1165 1412 890 67 76 3676 50349


東京書籍・『高校日本史』 記述の増減
1978 1983 1990 1993 1996 2000 2004
日韓議定書
第一次日韓協約
第2次日韓協約
第3次日韓協約
ハーグ密使事件
韓国統監府 ○ 
安重根
日韓併合条約 ○  ○ 
朝鮮総督府 ○ 
土地調査事業
3・1独立運動
万歳事件
皇民化
創始改名
義兵運動(闘争)
関東大震災
従軍慰安婦(慰安婦)
強制連行
資料(日韓議定書)本文
写真 伊藤博文と韓国皇太子
写真 3・1独立運動
写真 宮城遥拝する朝鮮の人々
写真 義兵
○は太文字の記述、△は普通の記述 資料等に関しては、記載があれば○ということにした。

第8講(2012/11/30)

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第10章 主体思想と北朝鮮の「漁夫の利」

参考文献

 徐大粛『金日成と金正日』(岩波書店)
 鐸木昌之『北朝鮮』(東京大学出版会)
 林武彦『北朝鮮と南朝鮮』(サイマル出版会)
 重村 智計『北朝鮮データブック』 (講談社現代新書)
 宮本 悟「朝鮮人民軍の『正規化』過程」、『六甲台論集:法学政治学編』第47巻第1号

 北朝鮮にとっての朝鮮戦争 - 「統一」戦略の挫折 → 「北朝鮮」だけの朝鮮民主主義人民共和国
→ 「どのような国家」たるべきか
ここにおいて重要なことは、中国とは異なり、この後の北朝鮮においては、
 政治的混乱が起こらなかったこと - 「路線の(大きな)ブレ」の不在 → この最大の原因として金日成独裁体制( → 「神格化」)
CF.中国の「ブレ」 - 一面ではこのような「ブレ」、つまりは党内抗争の存在こそが、80年代以降の中国の路線変更を可能とする
 EX.鄧小平 - 文革期に「実権派」として非難された人間が、「復活」することにより、路線変更が可能に
言い換えるなら、
 金日成体制は、1)中国とは明確に区別される政治的安定、2)路線変更困難な体制的硬直、の双方を生み出した
ここでの最大の問題は、
 何故、北朝鮮においては、同じ東アジアの社会主義国でありながら、中国のような政治的混乱を生み出さず、このような体制を生み出したのか?
しかも、
 1)朝鮮戦争での敗北、2)スターリン批判後の東欧における「小スターリン体制」の相次ぐ崩壊、
は、一見、金日成にとっての体制掌握へのハードルを、毛沢東にとってよりも一層高くしているように思える
そこで、以下、この二つのハードルを「克服」してゆく過程を見てゆくことにより、、金日成体制の成立を見てみることとしたい
朝鮮戦争での敗北
 CF.戦争で敗れた指導者は、体制への影響力を失うか?
  EX.昭和天皇 - 占領軍の「円滑な占領」の為に必要とされる
     サダム・フセイン(1991~2004) - 敗戦とその直後の混乱克服がかえってその体制を安定化させる
      (多国籍軍のバクダット侵攻中止、反米ナショナリズムの高揚)
→ 金日成の場合、どうであったか?

★第一ステージ - 朝鮮戦争
A)ライバルとの関係 - どちらがより深く傷ついたか
 朝鮮戦争以前の金日成の最大のライバル - 朴憲永(南朝鮮労働党指導者)「戦争が起これば、南の人民は決起する」
→ しかし、朝鮮戦争のその後の展開は、彼の目論見が明らかに間違いであったことを明らかにする
 「朴憲永は、自己の主導権獲得を優先する余りに、国家の指導を誤らせた」
 「我々の戦略は間違っていなかった。間違っていたのは、彼が我々に与えた情報だ」
結果、朴憲永は、朝鮮戦争の最中の1952年、「朴憲永・李承燁一味」の「摘発」により影響力を失う
→ 1953 李承燁ら10名処刑、1955 朴憲永処刑
同様のことは、
 程度の差こそあれ、当時の北朝鮮指導部の全ての人間に言える「お前も戦争に反対しなかった」
- 「野党」が存在しない、北朝鮮の体制
B)代わりはいるのか?
 とはいえ、朝鮮戦争中盤における北朝鮮軍の敗走 → 中国軍介入(軍事指揮権は彭徳懐に)
ここにおいて、金日成は軍隊の指揮権を事実上失う - 中朝連合司令部には、朴一禹と金雄が入る
結果として、
 朴一禹(延安派)の台頭 - 北朝鮮側の事実上の軍事指揮権を持ち、中国との太いパイプを持つ
ここでの中国の選択
 「朴一禹を支持して金日成を退陣させるか?」
しかし、この時点で、中国にとって重要なことは、
「北朝鮮における自己の影響力を拡大すること」ではなく、「北朝鮮をどうにかして維持し、アメリカとの軍事対決に備えること」
→ 北朝鮮の政治的混乱を回避したい中国は、延安派の朴一禹ではなく、金日成を支持することを明確化する
→ 朴一禹の更迭、金日成の軍事的指揮権回復
結局、
 中ソ、特に中国にとっては、アメリカとの対決の為には、安定して強力な北朝鮮の体制が必要であり、彼等は気づいた北朝鮮首脳部の中から、金日成を再支持することになる - 「金日成の代わりはいない」ことの国際的確認

★第二ステージ - スターリン批判
 1956.2.スターリン批判 → 東欧各国における「小スターリン体制」の崩壊
 EX.ポーランド・ビエルート急死、ゴムルカ復活
    ハンガリー・ラーコシ体制崩壊( → ハンガリー動乱へ)
 CF.スターリン体制と金日成体制の類似性 - 「スターリン・カンタータ」「神格化」
北朝鮮でも、
 1956.6.~7.金日成、ソ連・東欧訪問 - ソ連派・延安派、金日成への挑戦準備
     8.29. 朴昌玉(ソ連派)・崔昌益(延安派)、党全員会議で金日成批判
→ が、失敗 朴昌玉・崔昌益逮捕、尹公欽・徐輝(延安派)中国亡命
→ ミコヤン第一副首相・彭徳懐国防部長訪朝、崔昌益・朴昌玉中央委員復帰
しかし、これを契機に、
 「党員証交換事業」 - 南労派・延安派・ソ連派を洗い出し、実質的に追放する(この時、ソ連国籍保有者は帰国)
→ 政治分野における金日成の主導権確立
では、何故に「スターリン批判」の影響は、北朝鮮には大きく及ばなかったか?
 これを考える上で最大の鍵としての中国 - 「スターリン批判」受容せず(中国自身が「延安派」を支持せず)
→ 隣国・北朝鮮でこれが表面化することは、自らの体制にとっても得策ではない
そして、このような潜在的な中ソ対立は、それが表面化した段階で、更に金日成に有利に働くことに
 金日成 - 公式的に中ソ論争には「中立」
しかし、実際には、
 あ)フルシチョフの新路線が資本主義諸国家との(競争的)共存を志向するものであること「平和共存政策」
→ 究極的には「分断国家」である北朝鮮にはこれは受け入れられず → 中国への相対的傾斜
 い)朝鮮戦争における中国の多大な貢献
 う)パルチザン派の多くの中国との個人的紐帯(満洲出身者)
が、とはいえ、北朝鮮にとってはソ連との関係を断絶することもできず 「中国を支持するが、ソ連を非難はせず」
重要なことは、
 まず、北朝鮮がこの立場を利用することにより、少なくとも、「ソ連との上下関係」を解消したこと
では、中国との関係はどうか?
 中ソ論争以後の北朝鮮の中国への傾斜
→ が、1960年代後半の文化大革命 - 「スターリン批判」同様、金日成を脅かすことに 「北朝鮮には文革がない」
 EX.紅衛兵「壁新聞」による金日成批判  背景・中朝国境紛争
→ 北朝鮮は、中国自身の政情混乱もあり、中国からの自立を迫られる
加えて、
 1963 キューバ危機 - 「ソ連はやはり本気で我々を助けてはくれない」
 1965 日韓国交正常化
→ 北朝鮮の「孤立」への危機意識 → ベトナムをモデルとした「全土要塞化」
これを受けて、
 1965.4.金日成インドネシア訪問 - 「主体思想」を明らかに
 「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛」
 1966.10.第2回代表者会議 - 「大国主義」批判
  背景・国家経済7ヵ年計画失敗 「しかし、外国の援助は受けない」
 同時に、
  ソ連派の最終的放逐 - 南日解任 → パルチザン派(金日成派)の主導権確立
  第三世界外交展開 - 国交拡大
  1968.1.朴正煕暗殺計画失敗
      プエブロ号事件 
→ 米韓を警戒させるためのエスカレーション路線 → これに反対する軍人粛清 → 軍部に対する金日成の支配確立
→ 個人崇拝の過激化
  1970.4.周恩来平壌訪問 - 文革期の中朝対立の終了

この結果現れるのが、「主体思想」
 「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」哲学原理
→ 中国のそれに対抗する「対抗・文化大革命」であると同時に、「大国」からの支援を拒否することによる、自らの自立性を求める主張
それはある意味では、
 北朝鮮的な色彩を有するものの、典型的な50~60年代の途上国の主張であった、ということができる
しかしながら、このような「主体思想」は、民族主義(社会的愛国主義)を維持する為には有効であったが、
 1)自主国防による多大な負担 「片手には銃を、もう片方の手には鎌とハンマーを」
→ 全人民の武装化、全国土の要塞化、全人民軍の幹部化、全軍の現代化(四大軍事路線)
→ 軍の重要化 → 軍幹部の政治的幹部への進出 → 60年代の軍事的冒険
 2)技術・資本の供給の欠如 - 「持たざる者」同士の連合としての第三世界との連帯
これらは何れも、北朝鮮を経済的不信へといざなってゆくこととなる
 3)「主体思想」の人的「シンボル」としての金日成の「神格化」
結果としての、
 安定し、自己完結的であるが故に、改革への「突破口のない」体制の成立


第9講(2012/12/07)

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第11章 北朝鮮の苦境と生存のための模索

冷戦以前の北朝鮮
 ○中ソ対立を利用した相対的「独立」性の獲得
 ○金日成にまつわる「独立運動の神話」の上に立つナショナリズムと融合した支配イデオロギー
 ○アメリカとの軍事対決を前提とした経済発展を犠牲にした「人民戦争」型経済配置
→ 結果としての、「安定した」体制の確立(北朝鮮が目指したものの達成)
しかし、状況は変化することに、
 1)韓国の「予想外」の経済発展(1960年代以降~) → 1980年頃に両国の経済的格差明確に
 2)韓国における民主化とその結果としての「民主化勢力」の衰退(1980年代後半以降)
   → 韓国の体制安定化、反米運動の中途での挫折 CF.今日の盧武鉉政権と民主労働党の微妙な関係
 3)冷戦の終結とソ連・東欧社会主義国の体制崩壊 → 社会主義諸国からの実質的な援助の消滅
 CF.旧社会主義圏におけるバーター取引(政治的配慮の介在) → 外貨決済
 4)韓中国交正常化(1992年) → 中国の相対的中立化、ソ連の崩壊と含めて、北朝鮮への「核の傘」の消滅
結果としての、
 北朝鮮による韓国解放、の非現実化
CF.両国における「同朋意識」の後退(特に韓国において)
 1950年代 - 戦争を起こしてでも同朋を助け出す(顔の見える同朋)
 2000年代 - 同朋であり「共感」はするが、その為に汗も血も流さず、大金も出さない(抽象的な同朋)
これによる袋小路的状況の出現
 強大な韓米同盟を前にして孤立して敵対する北朝鮮 - 状況を改善するためのオプションとしては、
A.融和外交 - 国連同時加盟(1991年)、金丸訪朝団受け入れ(1991年)、「韓半島非核化共同宣言」(1991年)、南北頂上会談合意(1994年)、南北頂上会談(2000年)、小泉・金正日会談(2002年)
B.軍備強化 - 但し、今日の状況においては、通常兵力の強化による米韓への対抗は最早不可能
→ 従来からの全土要塞化に加えて、核戦力配備により、国土防衛(それにより冷戦崩壊後の「核の傘」消滅を補う)
→ 核不拡散条約(NPT)脱退宣言(1993年)、クリントン政権核施設爆撃計画(1994年)、黄海銃撃戦(2002年)、IAEA脱退(2002年)
注目されるのは、
 1994年~1999年の「沈黙」-原因としての、1)金日成死去、金正日承継、2)1997年~1998年の経済危機
→ 国内の困難故の、行動不可能 → 体制と経済の相対的安定による
逆を言えば、
 この期間を除けば、冷戦崩壊以降、北朝鮮が行っていることは一貫している
→ 体制の安定保障の為の方法の模索
このような点を理解するための重要なポイント
 ある体制の崩壊 → 経済的理由のみによっては崩壊しない

1)経済的不満を政治的に結集させるシステムの欠如 - 個々人にとって、「経済的不満を解消するために、政府を倒す」ことは必ずしも合理的ではない
○他のオプションの存在 - A.既存の体制に忠誠を誓うことにより、追加的利益を獲得、B.残されたエネルギーを追加的経済活動に投入、C.北朝鮮からの脱出
2)体制内対立、変革、契機、イデオロギーの不在(少なくとも確認されていない)
 例・ソ連崩壊-ペレストロイカによる政治的変革、韓国・フィリピン民主化-大統領任期切れ、イラン革命-イスラム原理主義
→北朝鮮にはさしあたり、いずれも存在しない
それではこのような状況はどうなるのか?
→鍵となる周辺国の思惑
○アメリカ-北朝鮮に対する「曖昧な」姿勢
 ・明確な利益の欠如 ・中国(+ロシア)との関係悪化憂慮(中東や対テロ戦争や国連安保理での協力の必要) ・戦争によりあり得る大きな被害
→ 現在の強硬姿勢を維持したままでの膠着、或いは、大量破壊兵器放棄による融和の実現(リビア型解決)
○中国-北朝鮮に対する消極的支援の継続
 ・北朝鮮暴発の防止 ・経済成長継続の為の米中(日中)関係維持 ・韓米同盟を維持した統一韓国実現の回避
○韓国-統一のコストの先送り
 例・「三段階統一論」-宥和政策を通じて、北朝鮮を改革開放へと導き、外貨を入れて経済発展させ、将来への統一へと導く
→この議論は、二つの意味で「夢想的」 a.改革開放による北朝鮮自壊の可能性、b.改革開放による北朝鮮経済発展の可能性の小ささ
→統一を実現するものというよりは、実際には、統一を先延ばし、朝鮮半島の現状(含む平和)を維持しようとするものでしかない
→ その為の限定的な援助 → 中国との「競争」による援助額の漸次増加
結果としての、
 周辺国による北朝鮮への消極的支援体制の継続

貿易依存度(単位%)
年度
韓国
北朝鮮
1970
1980
1990
1995
1997
1998
1999
34.8
65.7
53.5
53.3
59.2
71.2
65.5
23.1
25.6
20.4
9.2
12.3
11.4
9.4

出典:KOTRAより

韓国政府から北朝鮮政府への支援
政府支援 民間支援 合計
1995 23,200 25 23,225
1996 305 155 460
1997 2,667 2,056 4,723
1998 1,100 2,085 3,185
1999 2,825 1,863 4,688
2000 8,139 3,238 11,377
2001 7,522 6,017 13,539
2002 8,915 4,577 13,492
2003 9,377 6,386 15,763
2004 12,362 13,250 25,612
2005 13,588 7,666 21,254
2006 23,367 7,088 30,455
合計 113,367 54,406 167,773
万ドル 万ドル 万ドル

北朝鮮食糧生産量出典:韓国統計庁

千M/T 増減
2006 4536 0
2005 4757 5.2
2004 4311 1.4
2003 4253 2.9
2002 4134 4.8
2001 3946 9.9
2000 3590 -15
1999 4222 8.6
1998 3886 11.4
1997 3489 -5.4
1996 3690 6.9
1995 3451 -16.3
1994 4125 6.2
1993 3884 -9
1992 4268 -3.6
1991 4427 10.1
1990 4020 -12.2
1985 4193 -10.2
1980 3713 -21.1
1975 4355 1.8
1970 3982 1.5
1965 3548 3.1

北朝鮮の経済状況
人口 経済成長率 名目 GNI 一人当たりGNI
千人 % 億U$ U$
1990 20,221 -3.7 232 1,146
1991 20,495 -3.5 229 1,115
1992 20,798 -6 211 1,013
1993 21,123 -4.2 205 969
1994 21,353 -2.1 212 992
1995 21,543 -4.1 223 1,034
1996 21,684 -3.6 214 989
1997 21,810 -6.3 177 811
1998 21,942 -1.1 126 573
1999 22,082 6.2 158 714
2000 22,175 1.3 168 757
2001 22,253 3.7 157 706
2002 22,369 1.2 170 762
2003 22,522 1.8 184 818
2004 22,709 2.2 208 914
2005 22,928 3.8 242 1056
2006 23,079 -1.1 256 1108
2007 23,200 -2.3 267 1152
出典:http://www.bok.or.kr/

北朝鮮の対外貿易 (億ドル、%)

輸出入億㌦ 成長率
2006 30 0.0
2005 30 5.1
2004 28.6 19.5
2003 23.9 5.8
2002 22.6 -0.4
2001 22.7 15.2
2000 19.7 33.1
1999 14.8 2.8
1998 14.4 -33.9
1997 21.8 10.1
1996 19.8 -3.4
1995 20.5 -2.4
1994 21 -20.8
1993 26.5 3.5
1992 25.6 -0.8
1991 25.8 -38.1
1990 41.7 -13.1
1985 30.9 11.6
1980 34.5 23.2
1975 17.4 -14.3
1970 7.4 7.2
1965 3.9 2.6

貿易相手国別状況

2005 2004 2003 2002 2001 2000 1990
全体 輸出 10 10.2 7.8 7.4 6.5 5.6 9.4 億ドル
輸入 20 18.4 16.1 15.2 16.2 14.1 16.4 億ドル
総額 30 28.6 23.9 22.6 22.7 19.7 25.8 億ドル
中国 輸出 499.2 585.7 395 271 167 37 125 百万ドル
輸入 1081.2 799.5 628 467 573 451 358 百万ドル
総額 1580.4 1385.2 1023 738 740 488 483 百万ドル
タイ 輸出 123.5 90.8 51 45 25 20 28 百万ドル
輸入 205.7 239.1 204 172 110 188 13 百万ドル
総額 329.2 329.9 255 217 135 208 41 百万ドル
ロシア 輸出 7.9 7.2 3 4 5 3 908 百万ドル
輸入 224.4 206.2 116 77 64 43 1315 百万ドル
総額 232.3 213.4 119 81 69 46 2223 百万ドル
日本 輸出 131.1 163.4 174 234 226 257 301 百万ドル
輸入 62.5 89.3 92 135 249 207 176 百万ドル
総額 193.6 252.7 266 369 475 464 477 百万ドル
シンガポール 輸出 6.7 1.6 1 1 3 3 8 百万ドル
輸入 73.3 54.8 60 83 112 46 35 百万ドル
総額 80 56.4 61 84 115 49 43 百万ドル
ドイツ 輸出 14.7 22.6 24 28 23 26 54 百万ドル
輸入 62.1 68.6 71 140 82 53 50 百万ドル
総額 76.8 91.2 95 168 105 79 104 百万ドル
オランダ 輸出 6.8 8.3 7 6 10 9 1 百万ドル
輸入 35.5 10.5 93 28 9 10 5 百万ドル
総額 42.3 18.8 100 34 19 19 6 百万ドル
フランス 輸出 30 27 8 6 10 26 14 百万ドル
輸入 7.7 6.6 4 7 6 9 11 百万ドル
総額 37.7 33.6 12 13 16 35 25 百万ドル
インド 輸出 3 1.1 2 5 3 20 - 百万ドル
輸入 33.2 133.9 158 187 155 152 - 百万ドル
総額 36.2 135 160 192 158 172 - 百万ドル
スウェーデン 輸出 0.3 0 0 0 1 3 1 百万ドル
輸入 34.5 28 6 19 4 4 13 百万ドル
総額 34.8 28 6 19 5 7 14 百万ドル
香港 輸出 5.2 5.8 17 22 38 46 28 百万ドル
輸入 9.6 11.1 12 29 43 68 108 百万ドル
総額 14.8 16.9 29 51 81 114 136 百万ドル
イタリア 輸出 0.7 3.9 4 3 3 5 5 百万ドル
輸入 11.9 10.8 28 15 10 13 20 百万ドル
総額 12.6 14.7 32 18 13 18 25 百万ドル
アメリカ 輸出 0 1.5 0 0 0 0 - 百万ドル
輸入 5.8 23.8 8 25 1 3 - 百万ドル
総額 5.8 25.3 8 25 1 3 - 百万ドル

同シェア(%)
2005 2004 2003 2002 2001 2000 1990
中国 輸出 49.9 57.4 50.6 36.6 25.6 6.6 13.2
輸入 54 43.4 39 30.7 35.3 31.9 21.8
総額 52.6 48.4 42.8 32.6 32.5 24.7 18.7
タイ 輸出 12.3 8.9 6.5 6 3.8 3.5 2.9
輸入 10.2 12.9 12.6 11.3 6.7 13.3 0.7
総額 10.9 11.5 10.6 9.6 5.9 10.5 1.5
ロシア 輸出 0.7 0.7 0.3 0.5 0.7 0.5 96.5
輸入 11.2 11.2 7.2 5 3.9 3 80.1
総額 7.7 7.4 4.9 3.5 3 2.3 86.1
日本 輸出 13.1 16 22.3 31.6 34.7 45.8 32
輸入 3.1 4.8 5.7 8.8 15.3 14.6 10.7
総額 6.4 8.8 11.1 16.3 20.9 23.5 18.4
シンガポール 輸出 0.6 0.1 0.1 0.1 0.4 0.5 0.8
輸入 3.6 2.9 3.7 5.4 6.9 3.2 2.1
総額 2.6 1.9 2.5 3.7 5 2.4 1.6
ドイツ 輸出 1.4 2.2 3 3.7 3.5 4.6 5.7
輸入 3.1 3.7 4.4 9.2 5 3.7 3
総額 2.5 3.1 3.9 7.4 4.6 4 4
オランダ 輸出 0.6 0.8 0.8 0.8 1.5 1.6 0.1
輸入 1.7 0.5 5.7 1.8 0.5 0.7 0.3
総額 1.4 0.6 4.1 1.5 0.8 0.9 0.2
フランス 輸出 3 2.6 1 0.8 1.5 4.6 1.4
輸入 0.3 0.3 0.2 0.4 0.3 0.6 0.6
総額 1.2 1.1 0.5 0.5 0.7 1.7 0.9
インド 輸出 0.3 0.1 0.2 0.6 0.4 3.5 -
輸入 1.6 7.2 9.8 12.3 9.5 10.7 -
総額 1.2 4.7 6.6 8.4 6.9 8.7 -
スウェーデン 輸出 0 0 0 0 0.1 0.5 0.1
輸入 1.7 1.5 0.3 1.2 0.2 0.2 0.7
総額 1.1 0.9 0.2 0.8 0.2 0.3 0.5
香港 輸出 0.5 0.5 2.1 2.9 5.8 8.2 2.9
輸入 0.4 0.6 0.7 1.9 2.6 4.8 6.5
総額 0.4 0.5 1.2 2.2 3.5 5.7 5.2
イタリア 輸出 0 0.3 0.5 0.4 0.4 0.8 0.5
輸入 0.5 0.5 1.7 0.9 0.6 0.9 1.2
総額 0.4 0.5 1.3 0.7 0.5 0.9 0.9
アメリカ 輸出 0 0.1 0 0 0 0 -
輸入 0.2 1.2 0.4 1.6 0 0.2 -
総額 0.1 0.8 0.3 1.1 0 0.1 -

韓国から北朝鮮への無償支援
政府支援 民間支援 合計
1995 23,200 25 23,225
1996 305 155 460
1997 2,667 2,056 4,723
1998 1,100 2,085 3,185
1999 2,825 1,863 4,688
2000 8,139 3,238 11,377
2001 7,522 6,017 13,539
2002 8,915 4,577 13,492
2003 9,377 6,386 15,763
2004 12,362 13,250 25,612
2005 13,588 7,666 21,254
2006(10月まで) 21,080 6,586 27,666
合計 111,080 53,904 164,984
万ドル 万ドル 万ドル
註・2005年の韓国のGDPは7875億ドル

南北貿易
年度 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005
総額(百万ドル) 111 173 187 195 287 252 308 222 333 425 403 642 724 697 1055

年度 北朝鮮からの韓国への公式入国 韓国から北朝鮮への公式入国 所謂「脱北者」
1992 103 257 8
1993 6 18 8
1994 0 12 52
1995 0 536 41
1996 0 146 56
1997 0 1015 85
1998 0 3317 71
1999 62 5599 148
2000 706 7280 312
2001 191 8551 583
2002 1052 12825 1139
2003 1023 15280 1281
2004 321 26213 1894
2005 1313 87028 1387
2006 870 100838 2019
2007 1040 158170 -

2005年の韓国と北朝鮮
韓国GDP 北朝鮮GDP 政府支援 民間支援 支援合計 対韓国GDP 対北朝鮮GDP
2005 7875 208 1.36 0.77 2.13 0.027047619 1.024038462
億ドル 億ドル 億ドル 億ドル 億ドル % %

第10講(2012/12/14)

今年度は別途レジュメ配布済みです。

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第11講(2012/12/21)


今年度は別途レジュメ配布済みです。

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