開化派・親日派・国内派
 − 東亜日報グループからの考察 

報告要旨

 朝鮮・韓国近現代史。今日までそれらに関する研究としては、歴史・政治・経済等の分野において様々な研究成果が積み重ねられている。これらの中には、多くの注目すべき研究が数多く行われているが、惜しむらくは、それらの中には、個別研究ないしは、概観に留まっているものも多く、その結果、朝鮮・韓国近現代史の多くの部分が「断絶」したままになっている。

 このような、朝鮮・韓国近現代史に関する「断絶」については多くの部分を指摘できようが、そのような「断絶」の中でも大きなものは、1)併合に至るまでの研究(就中、開化派研究)と、併合後の民族独立運動の研究の間の断絶、そして、2)日帝期における民族独立運動と、解放後の韓国現代史との断絶があろう。前者においては、開化派と呼ばれる諸勢力と、併合後の民族独立運動を行った諸勢力との関係は必ずしも明らかではなく、これらの中間にある、1910年代(より正確にいうなら、併合から三一運動迄の間)は、相対的な研究の空白期として存在している。しかし、実際には、朴泳孝・尹致昊らに代される開化派や、開化派の一翼を担った大韓協会の有力会員達は、日帝期においても、継続して、大きな存在であったし、その彼らと三一運動を担った諸勢力との関係は必ずしも明確ではない。また、後者、乃ち、解放前の独立運動を担った諸勢力、就中、三一運動の中核であったといえる、国内派と、解放後の韓国政治との関係も必ずしも、その実態面においても、また、彼らに対する評価の面でも、確立した研究があるとは言い難い状況にある。

 報告は以上のような観点から、これらの断層を繋ぐものとしての、金性洙・宋鎮禹らに代される「東亜日報グループ」に着目し、政治学的観点を交えながら、これらを繋ぐ一つの流れを明らかにしようというものである。主な報告内容は以下のようなものとなる。

 

1)「東亜日報グループ」の成立過程

 (A)金性洙以前の蔚山金氏 − 一族の特質とその経済的造

 (B)朴泳孝と金性洙・宋鎮禹 − 開化派と東亜日報・三養グループ

 (C)東亜日報人脈の形成とその特質 − 中央学校・三一運動・東亜日報

2)「東亜日報グループ」の解体

(A)巨大な連合体 − 「当然の支配者」足るべき、

途上国的な大地主・大財閥・大スコミ・名望家連合の形成

 (B)権力闘争の中での敗退 − 制憲議会選挙の「敗北」とその分析

3)むすびにかえて

 

 では、このような「東亜日報グループ」のあり方は、如何にして評価されるべきであろうか。この点について、簡単にまとめておくと、次のようになろう。

 

1)経済的成功

 近代朝鮮/韓国史を見ていくうえで、このグループが他と、明確に区別される最大の特徴は、このグループが明確な経済基盤と、それを支える経営手腕を有していた、ということである。即ち、韓末期の殆どの団体、そして日帝期の多くの団体が有していた、巨大な問題であり、また、その活動の最大の制約要因となっていた財政的困難による、活動の沈滞化とはこの集団は無縁である。中央学校、京城紡織、東亜日報、普成専門学校、これら全ては、既に財政的観点からも「自立した」存在であり、経済的にも成功している。同グループが日帝期において、最大の影響力を行使し得る「民族陣営」の集団として機能したのも、このような経済的成功に支えられていたからであり、その点を見落とせば、この集団が有している意味は見失われるものと思われる。

2)過去の「遺産」の継承

 尤も、我々が同時に見落としてはならないことは、この集団がそれまでの近代朝鮮/韓国の諸運動集団と異なる「経済マインド」を有していたと同時に、過去の「遺産」の上に成立していた、ということであろう。中央学校、普成専門については言うに及ばず、京城紡織、東亜日報にしても、それを創設し、また、そこに金性洙らの財力を呼び込んだ主体は、金性洙ら自身というより、寧ろ、これら「壁にぶち当たっていた」旧来の諸集団、及びその流れを引く勢力であった。言わば、金性洙らは、これら旧来の集団に「経済マインド」を吹き込むことにより、これらの集団を建て直し、また、自らは、これらの過去の遺産を継承し、これらの「権威」を用いることにより、容易に民族運動の最前線に立つことが可能であった。これら、朝鮮王朝以来の「歴史の連続」の側面は見落とされてはならない。

3)人脈の形成

 とはいえ、東亜日報グループが、巷間言われるように、それまでの運動を主導してきた世代とは異なる「新しい世代」の人々から形成されていることも、また、事実である。それらは何故、可能となったのか。これを理解する点は、金性洙らがこれら過去の集団の救済、若しくは再出発を支援する際の条件として、ほぼ例外なく、絶対的な経営権と人事権の移譲を要求していることに見いだせよう。これらは金性洙らの過去の世代に対する不信、就中、彼らの経営能力に対する不信、に依拠していることは明らかであるが、この結果、金性洙らは、これら過去から引き継いだ集団より引きついだ「古い世代」の人脈を一定の経営的センスを持ち、自らの経営方針に従って自由に操作できる、言わば「有能な番頭」と順次置き換えて行くこととなったのである。これらの「番頭」の代表格が、言論・政治分野における宋鎮禹であり、また実業分野における金ヨンスであり、教育分野における玄相允であり、また、自らの名代兼参謀として、グループ内全ての諸集団を「ユーティリティプレーヤー」として活躍した、崔斗然であった。彼らは金性洙の絶対的経営権具現化された存在であり、それ故、彼らの個々の分野における発言力は絶対的なものとなった。

4)「経済マインド」の「政治的」意味

 それではこのような金性洙の絶対的な経営権は、日本統治下の朝鮮における運動の在り方にどのような意味を齎したであろうか。

 これを端的に示すのは、東亜日報における二度の「お家騒動」とその結果東亜日報を離れた諸勢力のその後、であろう。東亜日報における内紛は、二度、乃ち、24年における李相協らの「番頭」宋鎮禹への挑戦とその結果としての離脱、そして緩やかに時間をかけて展開された、32年前後における、朱耀翰・李光洙らの東亜日報から朝鮮日報への移籍、であった。両者は、共に積極的・消極的違いはあるにせよ、金性洙−宋鎮禹ラインの編修・人事方針を嫌う形で「独立」して行くこととなったのであるが、その結末は極めて類似している。両者は共に、時の東亜日報における編集局を握る、言わば、新聞としての(企業体としてではなく)東亜日報そのものであり、編修や、読者に訴える文章能力において、明らかに金性洙や宋鎮禹に優越していたが、その彼らは、結局、自らの自律に成功することなく、寧ろ、総督府に取り込まれて行くこととなった。そのことは、彼らが例外なく、東亜日報グループの中心人物達よりも、遥かに親日的人物として非難されていることからも明らかであろう。

 乃ち、一企業体として成功・自立している企業から、抜け出すことは、どんなに優秀な編集者や論説作成者であっても、乃ち、彼らがグループからの庇護を失うことを意味しており、それは言い換えるなら、総督府の圧力に直接的に晒されることを意味していた。東亜日報が、様々な総督府の有形無形の弾圧にも拘らず、その新聞としての使命を維持し続けることができたのは、その内容に対する、当時の、朝鮮人の支持もさることながら、彼らに一定の金銭的余裕があり、それ故、度重なる「発行停止処分」を乗り切る体力を有していたが為であった。しかし、その体力を有せぬ企業は、必然的にこのような総督府の圧力の脅威をより大きく受けることになる。自然、彼らは総督府に徐々に屈伏し、やがては取り返しのつかない譲歩へと追い込まれることとなったのである。

 これは言い換えるなら、当時の東亜日報グループが、一つの「権力体」として機能していたことを意味している。乃ち、これと同等、若しくはそれ以上の経済力を持たぬ勢力はどんなに優秀であっても、金性洙の経営権の前に跪くか、若しくは、総督府に屈伏するかの二社択一を迫られていたのである。就中、運動においては、大衆に訴える「場」を有することが、重要であり、経済的に破綻した限られた読者しか有さぬ勢力の影響力は彼らに遠く及ばなかった。経済的に安定した活動の「場」から追い出されることは、運動から事実上締め出されることを意味していた。彼らが運動の中心となり得た理由である。

5)限界1 − 親日派問題との関係で

 しかし、同時にこのような東亜日報グループのあり方は、彼らの運動の限界をも同時に示していた。まず、最初に、彼らはその経営の健全性を確保するために、より安価で獲得容易な資金を必要としていた。当時の朝鮮内部において最大の規模を誇ったこのグループと雖も、当然のことながら、経営危機と無縁である筈はなく、事実、これらの諸企業は二十年代の初頭においては、致命的な経営危機に晒されていた。ここで彼らが下した決断は「獲得容易で低利の資金を利用する」ということであった。言うまでもなく、この当時の実業分野進出以前の金性洙一族の財の多くは「土地」と言う形で存在していた。しかし、これらの膨大な土地を一時に売却することは困難であり、また、そのような選択は経済的合理性の上から行っても、適切なものであった。そこで彼らが下した、選択は自らの「地券」を担保に、経営資金を、事実上の総督府の外郭団体である朝鮮殖産銀行から借入れる、ということであった。ここで彼らが、京城紡織においても、東亜日報においても、その初代社長として朴泳孝をいただいていることの意味を推測することができよう。つまり、当時、朴泳孝は、この当時における半島の実業振興を目的に作られた銀行の「理事」であり、彼は一定の影響力をそこに行使し得た、のである。見逃しがちな事実であるが、朴泳孝はその最晩年に至るまで、グループの経済的中核企業である京城紡織社長の地位に留まっており、また、彼が退任した後は、京城紡織は監査役に朝鮮殖産銀行から日本人を迎えている。

 このような経済的合理性の観点からの総督府系資金の利用は、他の企業においても現われている。主として、土地資本の管理を統括した三養社は、自らの干拓事業遂行に於いて、度々総督府からの補助金を利用したし、それは、京城紡織が工場拡大を行う場合にも同様であった。また、資金面以外でも、彼らは有能な人物であると看做せば、李光洙のような、既に親日派としての疑いをかけられつつあった人材も、積極的に採用した。ある意味で、これらは経営的な判断としては正解であったが、この結果、彼らは総督府と密接な関係を持つに至り、そこが彼らが「親日派」として指弾される原因の一つとなっている。

6)限界2 − 合理的経営と地縁からの遊離

 経営に対する合理的なやり方は、同時に彼らをして、通常イメージされる「地主資本」≒「強力な地縁的基盤を持つ政治勢力」という在り方とは、異なるものとされた。この点は、解放以後、朝鮮戦争までに行われた二度の総選挙、その以前に行われた過渡議会選挙での韓民党の各選挙区における当落を見れば容易に知ることができる。

 韓民党の選挙区での状況を見て我々が驚かされるのは、第一に、金性洙をはじめ、党の有力指導者の殆どが自らの出身地から立候補していない、ということであろう。彼らの殆どは、首都ソウル、若しくは、釜山・大丘・光州等の地方中核都市から立候補しており、自らが「基盤」を有している筈の、地元から立候補していない。乃ち、彼らの政治的基盤は「地縁」によるものではなかったのである。

 このことの意味が更に明らかになるのは、朝鮮戦争直前、農地改革法公布以後に行われた第二回総選挙の結果であろう。驚くべきことに、この時、制憲議会選挙で韓民党から立候補・当選した候補者(前議員)は一人を除いて見事に全員落選している。このことは、韓国以上に有効に農地改革が行われた日本において、従来の保守的政治家の多くがその政治的命脈を保ち得たことと比べると実に印象的である。乃ち、彼らは自らの財産である土地を手放してしまうと同時に、当該地方との紐帯を失ってしまう程度の極めて弱い地元社会との紐帯しか有していなかったのである。

 それではこのような一見異常に見える現象は何故に生じたのであろうか。これに対する解答は、そもそもの韓国の地主、就中、東亜日報グループの中核であった金性洙一族の土地支配の在り方にあったであろう。確かに彼らは、全羅北道から南道一帯にかけて広大な土地を支配していたが、その土地の分布は、時と共に、頻繁に編成換えされた。乃ち、彼らは当初は分散していた土地を、経営的合理性の為に集中化させ、農場化することにより、再整理し、新たに小作人を募集した。また、それまでの小作人との在り方にしても、地主と小作人の関係は極めて流動的であり、10数年にも渡って継続的な関係を保つものは圧倒的な少数派であった。

 このような特殊な地主/小作関係のあり方は、朝鮮の伝統に根差すものでもあったが、それにしても、金性洙グループの場合、些か極端であった。彼らは「地主から出発した資本」ではあったが、解放迄にその実態は既に単なる「地主」から、確実に近代的な意味での「資本」へと転じていた。解放以後の政治的敗北は、彼らの経営的合理性への選択が、裏目に出た例であるといえるであろう。

7)限界3 − 金融資本の不在

 5)でも見たように、東亜日報グループの健全な経営実態は、土地資本を担保とする植民地金融との関係に支えられていた。日本統治期、特にその末期においては、朝鮮人資本家が、地力で金融機関を経営することは困難であり、事実、それらは最終的に事実上総督府に所有される幾つかの金融機関に統合されて行くこととなった。

 東亜日報グループにとって皮肉であったのは、このような「公的金融機関」の利用は、日本統治期よりも、解放以後の方が、遥かに困難であった、ということであろう。乃ち、韓民党と烈しく対立した李承晩政府は、韓民党と、東亜日報グループ系企業を自らの地位を脅かすものとして烈しく敵視し、これに対する、金融的支援を徹頭徹尾渋ることとなって行くのである。企業経営において、資金詰まりは決定的であり、そのことは、やがて、朝鮮戦争による工場施設破壊と、極端なインフレによる土地債権の無価値かにより決定的になることとなる。結果、45年においては、圧倒的な地位を占めていた東亜日報グループの経済的地位は急速に低落し、グループは政治的に対立・混乱・解体し、京城紡織を中心とするグループ内企業の一部は、李承晩政権の軍門に降ることとなる。

 半島最大の地主であり、半島最大の財閥で、半島で最も権威を有するマスコミを有し、米軍政下においても中心的な政治的勢力であった東亜日報グループが、何故に、解放以後の韓国の主流となり得なかったのか、という理由は正にここにこそ存在する。

8)むすびにかえて

 それでは東亜日報グループとは一体何であったのであろうか。それを一言で言うなら、「日本植民地統治の下で形作られた最も合理的で強力な資本」であった、ということであろう。それは、確かに、「民族主義と啓蒙」という明確な政治的メッセージを有していたが、それ自身は当時の半島において、それほど特殊なものではなく、重要なことは、彼らがそのメッセージを運び、伝達し、訴える「力」を有していた、ということであろう。その「力」は極めて強大であり、その「力」の内容は乃ち、その経営の健全性にあった。

 しかし、それは同時に、余りにも日本統治下に適合した資本であった。彼らは日本統治下において最も有効に資金を獲得し、それを運用した。だが、彼らにとって不幸であったのは、それは飽くまで「日本統治下において」最も有効な在り方であり、解放韓国において、その方法を使用することはできなかった。それまで彼らの利点であった部分は、欠点に転じ、その結果、彼らは敗北することとなった。

 ただ、一つだけ付け加えておくべきことがある、とするなら、それは解放以後の東亜日報の有した意味であろう。当初、東亜日報グループと一体であった韓民党、及び同系列の政治勢力であったが、やがて、東亜日報グループの政治的解体と経済的地位低下は、この系列の勢力 − 乃ち韓国の保守野党 − 東亜日報グループからの自立を齎すこととなった。ただ、例外は東亜日報であった。東亜日報は − 朴正煕政権の最初期を除いて − 常に彼らの側にあった。李承晩政権においても、朴正煕政権においても、東亜日報は常に政権からの敵意に晒され、その圧力に苦しむことになった。東亜日報はそれでも斃れず、野党はこれを自らの代弁機関として利用することができた。その背景に、あったのは東亜日報の「権威」と飽くまで「健全な」経営であった、とするなら、それは言い過ぎであろうか。

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