木村幹の韓国近現代史「写真コラム」

近現代朝鮮/韓国史の目撃者たち
ソウル編 (撮影2001年8月)

高麗大学(旧普成専門学校)

 中央に見えるのは日本統治期に、普成専門学校を入手し、中興した金性洙の銅像。日本統治期において最大の民族資本として台頭し、東亜日報や普成専門学校経営等により、民族主義の一方の旗頭を自任しながらも、他方で総督府と一定の関係を有した、彼等「東亜日報グループ」の評価は、簡単ではない。

旧東亜日報本社

 大韓帝国期から地主として財を築いた金性洙の一族は、日本統治期に入って本格的にソウルに進出。東亜日報は日本統治期における彼等の政治活動の中心であった。解放直後、彼等「国内派」の代表的政党であった韓国民主党の本部もこの建物内に置かれた。解放直後は絶大な影響力を誇った彼等であったが、朝鮮戦争を契機にその勢力は急速に失墜することとなる。

徳寿宮(旧慶運宮)

 露館播遷で知られる、ロシア公使館での生活を終え、高宗が自らの宮殿として選んだのは、この徳寿宮(当時は慶運宮)であった。保護条約から併合へ、大韓帝国の命運を決めた政治的事件の多くは、この宮殿と呼ぶには余りにも貧弱な、ソウルの一角で行われた。写真は外国使臣の接見場として使われた石造殿。西洋の新古典主義様式の建物である。

 徳寿宮の中で高宗が自らの生活空間としたのは、石造殿や中和殿と言った儀式用の建物の背後にある、伝統的な韓国様式の建物である。彼は1919年に死去するまでここに居住した。その死が、三一運動のきっかけとなったことはよく知られている。

旧ロシア公使館

 日本の脅威を逃れて高宗が避難したロシア公使館は、徳寿宮後方の高台、ちょうど宮殿を見下ろせる位置にあった。公使館は韓国併合後も、ロシア領事館として使われたが、朝鮮戦争により破壊される。写真は、今日唯一残る公使館時代の建物の一部である。

雲峴宮(興宣大院君旧宅)

 雲峴宮は言わずと知れた興宣大院君(高宗の実父)の旧宅である。なお、今日の建築物は、1990年代半ばまで放置され荒廃していた建物等を、近年に入って大幅に手を加えて整備・復元したものである。高宗の国王就任により国政への影響力とこの邸宅を確保した彼は、1863-73年に所謂「大院君執政期」の政治をリードすると共に、1882年、1894年、の2度に渡り再度の執権を狙ってこの邸宅から政権を伺った。また、ここは、高宗が国王就任までの12年間を送った場所でもある。波乱に満ちた人生を送った高宗は、自らの幼少年時代をどのように振り返ったのだろうか。

 大院君の子孫は、日本統治期には有力な朝鮮貴族の一人として、影響力をふるった。写真は彼等が大韓帝国末期から日本統治期に暮らした洋館である。

天道教大教堂

 天道教は東学の流れを引く、韓国の有力宗教の一つあり、朝鮮/韓国近代史において重要な役割を果たした宗教である。写真の大教堂は、1918年、孫秉煕の依頼に基づき、若き開化派指導者、尹致昊が提供した土地の上に3年をかけて建築されたものである。この間、1919年に起こった三一運動において、孫秉煕は33人の民族代表者の筆頭各の人物として名を連ねている。

朝鮮総督府(中央庁)址

 朝鮮総督府は、元来、光化門があったところに、景福宮をふさぐ形で作られていた。1926年に建てられた建物は、1945年の解放後も、米軍政庁、国会議事堂、更には、中央庁として、常にこの国の政治の中枢を占めてきた。日本統治の20年間、米軍政の3年間、そしてそれらよりもはるかに長い、大韓民国の48年間を見つめた巨大な大理石の建物は、やがて「日本統治の憎むべき遺産」として、世論の非難を一身に浴び、95年に解体が決定、96年から順次作業が行われた。

文化観光部(旧国家再建最高会議)と在韓米国大使館


 光化門前に並んで立つよく似た二つの建物は、左が61年の5.16.軍事クーデター後暫くして、国家再建最高会議が置かれた建物、そして、右側が在韓米国大使館である。クーデターにより政権を獲得した朴正煕はこの建物から、アメリカとの微妙な対立関係の中、韓国の社会を変えてゆくこととなる。

光化門(景福宮)前

 現在の景福宮は、1863年~1873年の興宣大院君執政期に再建されたもの。そしてその正門である現在の光化門は、朝鮮総督府新庁舎建築の為に解体されたものが、日本統治期に再建され、その再建された建物が、更に朝鮮戦争にて焼失した後、1960年代に再々建されたものである。衛正斥邪思想的な思想に基づき、排外政策を遂行した大院君が再建した景福宮の正門に、現在かけられている「光化門(ハングル)」の文字は、積極的な外資導入と輸出志向型工業化戦略を行った朴正煕によるものである。排外主義の大院君と、韓国を経済発展へと導いた「親日派」朴正煕。ここは、二人の矛盾する夢が交差するところである。

鍾路

 日本統治時代の鍾路は、「明治町」(今の明洞)が日本人街であったの対し、朝鮮人の為の繁華街であった。パゴダ公園を挟み、鍾路3街一体にはこの町最大の遊郭があり、様々な人間が様々な人生を交差させた。中央に見えるのは、甞ては、ソウルに一時滞在する外国人達の定宿として知られたYMCA。現在の建物は、朝鮮戦争により破壊された後、立て直された「2代目」である。その古ぼけた姿は、解放以後も主要な繁華街として繁栄してきたこの街が、少しづつではあるが確実に、甞ての賑やかさを失いつつあるのを象徴するようである。

和信百貨店址

 

 繁華街としての甞ての鍾路の中心は、朴興植が始めた朝鮮初の「連鎖店(チェーン店)」方式の百貨店、和信百貨店の本店であった。廃業後も長らくその鉄骨を晒してきたその場所には、現在、近代的な鍾路タワーが建つ。小規模な輸入紙取り扱い業から出発して、やがて日本統治期の朝鮮実業家の雄となった朴興植は、解放後は、「親日派第一号」として深刻な非難に晒され、独立後は李承晩政権と対立することにより、急速に没落することとなる。

4.19紀念会館(李起鵬元国会議長宅址)



 1960年4月19日、景武台(大統領官邸、現在の青瓦台)に向かった学生デモは、これを阻止する警察の発砲事件を引き起こし、この事件により李承晩政権は崩壊することとなる。所謂、「4.19学生革命」である。この時、デモ隊が、景武台に次ぐ標的としたのが、当時「西大門景武台」とまで呼ばれたNO.2、副頭領に「当選」したばかりの李起鵬の自宅であった。自宅と家財道具を破壊され、一切を失った李起鵬とその一家は、景武台の一角へと逃げ込むことを余儀なくされる。一家はやがて、長男・李康石(李承晩の養子)の手により射殺され、自殺した彼を含む全員が、死体で発見された。引き継ぐ者を失った李起鵬の自宅は、法に則って国有財産となり、政府はそれを4.19紀念財団に提供した。今、そこには巨大な4.19紀念会館が立つ。現在の建物は、90年代に建て直された、2代目である。韓国現代史の過酷さを見せ付けられる一角である。

興化門(慶煕宮)


 ソウルの数ある建物の中でも、この興化門ほど、稀有な経験をした建物はないかも知れない。ソウルにおける第4の宮殿、慶煕宮の正門として建てられたこの門は、韓国併合後、宮殿が破壊され、その旧地が京城中学校として使われることにより、その役割を失った。甞ての堂々たる宮殿の正門は、その後、現在の新羅ホテルのある位置にあった、伊藤博文を祭る「博文寺」の正門として使われることとなる。解放後博文寺が破壊され、またもや主を失ったこの門は、その後、同じ位置に建てられた韓国政府迎賓館の正門として使われる。この門が甞ての位置に戻って来たのは1988年。2001年現在、その背後では宮殿の復元作業が進められている。

金九墓地(孝昌公園)

 1945年、重慶より帰国した大韓民国臨時政府主席、金九が行ったことの一つが、韓国の独立を夢見ながらも海外にて客死した、甞ての仲間をはじめとする、「独立義士」たちを故国に祀ることであった。金九がその場所として選んだのが、ここ孝昌公園である。1949年、李承晩との政治的闘争に敗れて暗殺された彼は、今、自らが仲間のために選んだこの公園にて、共に眠っている。

憲法裁判所(朴珪寿宅址)


 景福宮と昌徳宮、二つの王宮の間に広がる地域は、甞て、朝鮮王朝時代の高級両班達が居住した地域であった。勿論、それは近現代史における主要人物達も例外ではない。現在、憲法裁判所が立つこの地点には、朝鮮開国思想の主唱者、朴珪寿の自宅があった。金玉均、金允植、朴泳孝、彼等はここで朴珪寿から「開化」の教えを学び、近代史の中に旅立つこととなる。

耕仁美術館喫茶室(朴泳孝・李容翊等旧宅)

 仁寺洞の代表的な「伝統喫茶」として知られる、この喫茶の建物が辿った運命も極めて稀有なものであった。1894年、所謂甲午改革の中、「親日派」朴泳孝の邸宅として使われたこの建物は、彼の政治的没落後、今度は一転、高宗の側近の筆頭格として知られた、代表的な排日論者、李容翊の手に渡ることとなる。その建物は現在、歴史的背景を知らない日本人観光客が群がる観光スポットの一つとなっている。

金性洙旧宅



 日本統治時代から50年代、韓国人エリート達の居住地域は、喧騒に満ちた鍾路から逃れるように、甞ての高級両班達の居住地域の若干北方に存在した。左右のイデオロギー的格差や、与野党の政治的立場を超えて、彼等はこの僅か半径100M程度の狭い地域に密集して居住し、今日も幾つかの邸宅が甞ての姿のまま残されている。写真は、その一角を占める金性洙の自宅。そのすぐ隣には、彼の養父金祺中の自宅も残されている。その門に無造作に貼られた「朝鮮日報謝絶」という張り紙は、80年以上続く、朝鮮・東亜両紙の熾烈な競争を垣間見せてくれるようである。

尹潽善旧宅

 1945年8月15日。当時の京城(現ソウル)に居住した韓国人エリート達は、この地域に存在した二つの邸宅に集まって、解放後の自らの行動について協議した。邸宅の一つは、言うまでもなく、「東亜日報グループ」オーナーの金性洙宅、そしてもう一つは、この尹潽善宅であった。その広大な自宅の規模にも表れているその豊富な資金力は、やがてこの邸宅の所有者を、大統領にまで登りつめさせるのに一躍買うこととなる。

呂運亨宅址

 甞ての現代財閥の本部ビルのすぐ裏手には、建国準備委員会や朝鮮人民共和国を解放直後に率いた、「中道左派」の指導者・呂運亨の自宅があった。今、そこには彼を偲ぶものは何もない。

曺奉岩宅址


 1950年代最悪の政治的事件、「進歩党事件」の被害者、曺奉岩の自宅は尹大統領旧宅から北側50Mほどのところにあった。同じ「町内」住民の中から処刑者を出した時、当時のエリートの心中は如何なるものであったのであろうか。

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木村幹の韓国近現代史『写真コラム』

近現代朝鮮/韓国史の目撃者たち:目次

韓国は如何に現代史を「祀った」か
- その1・顕忠院(国立墓地)-

韓国は如何に現代史を「祀った」か
- その2・北岳山「先烈墓域」-

韓国は如何に現代史を「祀った」か
- その3・居昌事件追慕公園-

朝鮮総督府・米軍政庁・(大韓民国)国会議事堂・中央庁・国立中央博物館
- 数々の顔を持った今は無き建築物-

1992年第14代大統領選挙写真集
- 大演説集会のある風景 -

山の上に「街」があった頃
- 1990年前後の韓国を振り返る -

木浦の旧日本家屋
- 「日本人の住む街」でもあった港町 -


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